silent doll

「…お話できることなんてありません」

「そう言わずにさ~!ほらっ!なーんか、ひとつ!あるでしょ?」

「ありません」

駅前を早足で歩く青年と、それをまた早足で追い掛ける女性。

「…いいかげんにしてもらえませんか。人が見てます」

「人目を気にしてたら記者なんかやってらんないって!ほら!何かひ・と・こ・と!」

「………」

青年は立ち止まり、女性に向き直った。

「僕はあの人の人形だ。人形は喋らない。だから、喋ることは何もない」

「人形、って…」

呆気に取られている女性を残し、青年は足早にその場を去った。

 

 

 

「遅い」

「ごめん。…最近変な記者につきまとわれていてさ。今日も…」

「御託はいい。さっさと調律を済ませろ」

「…わかった」

天宮は冥加に言われるまま調律を始める。

…ここ何日か前から、天宮は自称ジャーナリストのたまごを名乗る女性につきまとわれていた。

天才ピアニストと謳われた天宮静。彼を育てたアレクセイ・ジューコフなる人物に対する想いを聞きたい、と。

なぜ自分に白羽の矢が立ったのかはわからない。アレクセイの秘蔵っ子というなら、冥加に話を聞けばいいのに。
…まあ、彼に何か聞いても絶対に答えることはないだろうけど。

まさか、彼女もそれを知っていて自分につきまとっているのだろうか。
だとしたら、なめられたものだ。

アレクセイ・ジューコフ…
彼に関して、話すことなど何もない。
彼を語ることなど許されるはずもないし、語りたくもない。

身寄りのない自分を引き取り、ここまで育ててくれたという敬愛の念。
音楽以外にはまるで無頓着で、人としての愛情などかけてもらえなかった憎しみの念。

天宮のアレクセイに対する想いは、複雑だった。
そんなの、出会ったばかりの人間に話すことができるものか。

冥加のように我が道を貫くこともできない。人としても未完成―――

「(僕のピアノが、これ以上うまくならないのも当然だ…)」

諦観していた。
人形なら、人形のままで。

言われた通りに弾き、言われた通り生きる。
それが自分の在り方なのだと。

 

「全国で演奏する楽譜は先に渡しておく。一週間以内に完璧に弾けるようにしておけ」

「は、はいっ!わかりました、冥加部長!」

揉み手をしながら冥加に返事をする氷渡を、冷ややかな目で見ていた。
なぜ、そうも一生懸命になれるのか。

…「何かが足りない」自分のピアノでも、一応冥加は満足しているらしい。
いや、満足ではない…
彼もまた、諦観しているのだ。自分のピアノに。

冥加のアンサンブルに遜色ないレベルに達しているピアノを弾けるのが自分だというだけで。
そして、自分のピアノはこれ以上どうにもならないということを、彼もまた知っている。

「天宮さん、これからまた練習を?」

「…いや。僕はちょっと息抜きをして…帰るよ。だからここは、君が使っていい」

「そ、そうですか。ありがとうございます!」

天宮は、氷渡を残し練習スタジオを去った。

 

天宮は、駅前の喫茶店に入った。
別に何をするわけでもない。
すぐ家に帰りたくなかっただけ。
なんとなく、ピアノのある場所にいたくなくて。

「アメリカン一つ」

「かしこまりましたー」

全国大会…か。
そんなものに出て、どうしようというのか。

競い合うことに意味などない。
そんなことない、と人は言うだろう。
だが、天宮にとっては、「競い合うことで得るものは何もない」。
天宮は今まで、いくつものコンクールに出場し、いくつも優勝を勝ち取ってきたが…
「勝って嬉しい」「負けて悔しい」などと感じたことは一度もなかった。

出ろと言われて、優勝しろと言われて、その通りにした、というだけ。

優勝できなかった時は、何がいけなかった、ここをもっと練習しろ、そう言われて、「そうなのか」と思うだけ。
もっと練習しようとか、うまくなろうとか、そんな風に考えたことは一度もなかった。

譜面に書かれた音譜を指でなぞり、音を紡ぐだけ。

そんな自分は、やはり人形だと思う。

コーヒーに入れたミルクがぐるぐると渦を巻くのを見つめていると、不意に影が覆った。

「………?」

「相席いいですかー?」

「………」

天宮はあからさまに顔を歪めた。
目の前に座ったのは、例の女性記者。
こんなところまで追いかけてくるなんて、と呆れつつ、天宮は席を立とうとした。

「ま、まあまあまあ!いーじゃない!無理矢理話を聞かせろなんて言わないからさぁ!」

「………」

天宮は小さくため息をついて、席に座り直した。
コーヒーにもまだ口をつけていない。
家に帰りたくないし、仕方ない。

「そうそう、それでいーの」

「…なんなんですか、本当に。あなたのようにしつこい記者も初めてだ」

「ってことは、今までにも記者に追われた経験が?」

「ないことはない。…大概は冥加について、一瞬で追い払われてましたけれどね。それから、僕に」

「ふうん…。冥加くん、ね。天才ヴァイオリニストの」

「僕なんかより、彼に話を聞いた方が面白いことを聞けると思いますよ」

冥加が絶対に話などしないことをわかっていて、天宮は言った。
これで冥加にくら替えしてくれれば、僕は解放されるはずだ、と。
しかし、女性の返答は意外なものだった。

「あの子はねぇ…。なんていうか、見えちゃってるのよねー。意外性がないっていうかさ。それに比べて、天宮くんはいつもアレクセイ氏や冥加くんの影にいて、何も語らないのが何か隠してそうで面白そうっていうか」

「………」

天宮は驚いていた。
記者という職業の人間は、こぞってアレクセイや冥加に話を聞きたがるのに。

「…あああ、ごめん。影、なんて失礼だったか」

「…いいえ」

むしろ、天宮は機嫌を良くしていた。
冥加がアレクセイの元に来てから、いつでも冥加ばかり注目されていた。
アレクセイも、掌を返したように冥加ばかりを可愛がり。

冥加より注目されたことが、どこか嬉しかったのかもしれない。

「…でも。残念ながら、僕には隠していることなど何もないですよ。何も喋らないのは、喋ることがないだけ。隠すこともない。…僕は人形だから」

小さく笑ってそう言うと、女性は訝しげな顔をした。

「…その、人形ってのは何?あんた、人間じゃないの?」

「人間じゃないですよ。人間は自分の意志で行動するものでしょう。僕はそうじゃない。言われたことしかできないし、やらない」

「…ふーん?今、こうしてるのも?」

「ええ。先生に、横浜に行き冥加のサポートをしながらピアノを弾けと。そう言われたから」

「あー…あの。そうじゃなくてね」

「…だから、僕はピアノもうまくならない。感じる心がないから」

「はあ?!充分うまいじゃない!天宮くんが出たコンクール、いくつか見たけど、」

「技術的なことじゃない。もっと………ああ、あなたは音楽専門のジャーナリストじゃないんでしょう。そんなあなたにこんな話をしても、わかるはずないか」

天宮が言うと、女性はにやりと笑った。
よくも言ったわね、という顔で。

「ま…確かに音楽を専門に扱ってるわけじゃないけどね。見くびってもらっちゃ困るわよ、なんてったって私はあの!多くの音楽家を輩出した、星奏学院の卒業生なんだから!」

胸を張って鼻を鳴らす彼女に、天宮は驚く。

「…驚いた。星奏学院か。確かに、あそこはすごい」

「でしょ?だから…」

「じゃああなたも音楽をやっていたということ?楽器は何を?」

「あー、あの。…私は普通科だったからさ」

「……………」

天宮はため息をついて目をそらした。
明らかに呆れた様相の天宮に、女性は慌てる。

「ふ、普通科って言ってもね!学院分裂の危機を救ったヴァイオリニストの親友で、彼女たちについてコンサートを成功させたという実績があるんだから!」

「実績…。実際に演奏をしたのはあなたじゃないんでしょう。それでは実績とはいえませんね」

「た、確かに技術的なことはわからないけども!…いろいろとわかるよ、いろいろと…ね」

「………?」

「あんたのピアノが技術的なこと以外で優れないってのは…うん、そんな事例はいくつも見たわよ」

「えっ…?」

天宮に音楽を説く人間は、みな一様に「練習あるのみ」と言うだけだった。
作曲者の心を理解しろだの、情景を思い浮かべろだの、抽象的なことばかりで、具体的に何をどうしたらいいのか教えてくれる人はいなかった。
まさか、彼女は知っているというのか?

「…教えて下さい」

「おっ!食いついてきたねー。でも、こういうのはギブアンドテイクってやつよ」

「条件がある、と?」

「もちろん。…あんたがこれからどうなっていくか、追わせてくれること。それが条件」

「………。それは、逐一僕の動向観察するということですか?」

「そこまで大袈裟なもんじゃないわよ。…まぁ、本当はアレクセイ氏の裏の顔に関して話してもらおうかとも思ったけど…」

「裏の…顔?仮にも彼の師弟である僕にそんなことを言っていいんですか?」

今すぐ帰って、これから一切の取材をシャットアウトしてもいいんですよ?と試すように笑った。

「いやいやいや、まぁ、裏の顔があるって決め付けたわけじゃないんだけどさー。なーんか胡散臭いんだよね、あの人。あの紳士っぷりがまた…」

「………」

「私のこういうカンて結構当たるのよ。前も…いや、あれは結局確証を掴めなかったんだけど…」

天宮が顔をしかめていることに気づき、女性は慌てた。
さっきも言われた通り、彼はアレクセイ氏の師弟。
さすがに言い過ぎたか。

「ぷっ。あはははは!」

天宮は笑い出した。

「先生のことをそんな風に言う人は初めてだ。彼を崇拝していない人物なんて、冥加と先生の姪くらいだからね」

「あ、そ…そうなの?」

笑う天宮に面食らって、冷や汗を拭う女性。

「ふふ。…僕は先生のことについて語れないけれど…。いいですよ、さっきの条件、飲みましょう」

「えっ?!本当?!よっしゃ!」

「でも。僕自身に関する報告以外の話はしない。それでもいいですか?」

「うんうん、全然OK!」

「それで?あなたは知っているんですよね。技術的なこと以外で、更にピアノの腕を磨く方法」

「ふふん。それはね…」

女性は焦らすように、一呼吸おいて言った。

「恋をすること、よ!」

「恋をすること…?」

反芻して、天宮は落胆したように目をそらす。

「ちょ、ちょっと!本当に効果があるのよ、これは!」

「高校生相手だからってバカにして…いや、取材をしたいがために…?なんにせよ、稚拙すぎて言葉も出ないな…」

条件を飲むなんて言うんじゃなかった、と天宮はため息をつく。

「ちょっと、人の話聞きなさいよ!…あんたは恋をしたことがあるわけ?」

「………。ない。というより、恋というものがなんなのかすら、よくわからないな」

「ほらあ。人形は恋なんかしないもの。人間は恋をするものなの!17、8年生きてりゃ、1度や2度はね!」

「…そうなんだ」

「で、恋は簡単にできるものなの。しかも音楽や生活の全てを変えてしまうんだって!…ま、ここは親友の受け売りだけどね」

「そんなにすごいものなんですか…?」

「もちろん。あんたのピアノに足りないものも、きっと補える。ね、どう?恋をしてみる!で、そこからあんたのピアノがどう変化していくか私は取材させてもらう!」

「……………」

恋、か。

「(僕が人間らしい感情を知る、一番手っ取り早い方法…)」

興味は持った。
が、彼女の言うことが真実なのか、いまいち信用できない。

「…あなたは、恋をした音楽家がどのように変化したのか、見たことがあるんですか?」

「うん。あるわよ。恋をして、今や1ホール3000人の聴衆を魅了するヴァイオリニストになったわよ」

「………。技術だけの問題じゃ、なく?」

「まぁ、技術も磨いただろうけどね。あっ、いいものがあるわよ。これ、読んでみてよ」

女性は鞄から紙の束を取り出した。
これは…
アンケート用紙?

「最近、私の親友が行ったコンサートのアンケートね。それを元に記事を書くんだけど…しばらくあんたに貸してあげる。彼女のヴァイオリンにどんな魅力があるのか、わかるわよ」

「………」

「それを読んで、納得したら教えて!それで契約成立としましょー」

「あっ…」

女性は席を立った。

「ごめんごめん、これから別の取材があるのよ。今日はこの辺で。…ああ、あと、これね」

テーブルに置かれたのは、一枚の名刺と、千円札。

「払っといて!じゃあ、また。急がなきゃ!」

「………」

女性はバタバタと店を出ていってしまった。
…あらゆる意味で忙しい人だ。
天宮はテーブルに置かれた名刺を見る。

「フリーライター…天羽菜美…」

 

 

 

しばらくして、天宮は喫茶店を出て、帰宅した。
ソファーに腰かけ、天羽から渡されたアンケート用紙を眺める。

「………」

クラシックのコンサートは初めて来たので、専門的なことはわかりませんが、とても幸せな気持ちになれました!

日野さんの演奏は、愛に満ちた調べで、夫婦やカップルで聴くのにすごい向いてると思いました!

よく聴くような曲でも、日野さんが弾くと違う曲かと思うくらい暖かな曲になる気がします。

…大半は「よくある感想」なのだが、感情的な感想が目立つ。
天羽の言う通り、彼女の親友は確かに技術面以外の何かを持っているヴァイオリニストらしい。

天宮が今まで言われた、演奏に対する感想は「技術が優れている」ということだけだった。
…自分と比べたら、聞かせた人数にも差があるから、たくさんの感想があることは当たり前なのだが…

「(恋をしてみる価値は、あるか…)」

天宮は天羽の名刺を取り出し、記載されていた番号に電話した。

 

 

 

 

 

 

 

「で!やってみる気になった?!」

翌日。
喫茶店で、天宮と天羽は落ち合っていた。

「ええ。契約成立ということで。…これは、お返しします」

預かったアンケート用紙を手渡す。

「了解っ!やっぱり、これのおかげ?」

「まだ、半信半疑のところはありますけれどね。やってみる価値はあるんじゃないかと」

「それで充分!…じゃあ、まずは恋をすることからか。好きな子ができたらまっ先に教えるよーに!」

「………」

言われて、はっとする。
そうだ、恋をするにはまず誰かを好きにならなければいけない。

「…どうやったら、人を好きになれるんですか?」

「………は?…ああ、そうか…。あんたはそこからなのか…」

天羽は頭を抱える。

「難しく考えないで…まずは人に興味を持つことから始めたら?いつの間にか好きになってた、ってなことが多いもんよ、恋なんて」

「いつの間にか…か。気の遠くなるような話だ」

「あ、じゃあさ。今から、同じくらいの歳の子と出会ったら、その子に恋をしてみる…ってのはどう?」

「………。大雑把すぎやしませんか」

「だって、あんたはそれくらいでもしなきゃ恋なんかできなそうだもの。ねっ!そうしてみなよ」

「ものすごく外見がおかしかったり性格がおかしかったりする場合でも?」

「性格がおかしいのはあんたも一緒でしょ。外見は…目をつぶればなんとかなるものよ。ほら、美人は3日で飽きるともいうし!」

まるで博打だ、と天宮は思った。
しかし、アレクセイの言葉に従うだけの日常には、ありえなかった試み。
…面白いかもしれない。

「わかりました。それでやってみる。…と、これからスタジオを予約しているんです。そろそろ失礼していいですか」

「うん、いいよー。私はもう少しここで記事書いてくわ。じゃ、よい出会いを!」

天羽を喫茶店に残し、天宮は練習スタジオに向かった。

「(このままいくと、練習スタジオに出会いがありそうだけど…あそこは個室だからな…)」

駅前の練習スタジオは、値段が安いこともあって学生がよく利用している。
高校生もまた。

少しの不安と、好奇心。

 

「………」

練習スタジオの廊下には、誰もいなかった。
厚いドアから微かに楽器の音が漏れ聞こえてくるから、まったく人がいないというわけではなさそうだが…
タイミングが悪かったようだ。

「(仕方ない…。練習が終わったら、公園にでも行ってみるか)」

そう考えて、天宮は自分の予約しているスタジオのドアを開けた。

♪♪♪♪~♪~♪~

「………!」

誰もいないはずのスタジオには、女の子がいた。
ヴァイオリンを弾いている。
…星奏学院の制服に身を包んだ、同い年くらいの女の子。

「あの…」

「!」

天宮が声をかけると、女の子はヴァイオリンの演奏をやめ、慌てて振り向いた。

「この部屋。僕が予約していたんだけど」

「えっ」

予約表を差し出すと、内容を見ないうちから驚いているようだった。
予約表の見方をよくわかっていないようだ。

「っ………!す、すみません!私、このスタジオ使うの初めてで…システムがよくわかっていなくて…!す、すぐに片付けて出ていきます!」

「いいよ、別に」

女の子をじっと見つめた。
…外見は嫌いじゃない。
恐縮しているところを見ると、悪い子でもなさそうだ。

「…ねえ、よかったら君の演奏、聞かせてよ」

 

それから、なんだかんだで一緒に演奏をすることになって…
彼女とは音楽の相性がいいことを知った。

ただ偶然、スタジオで出会っただけなのに。
正直、驚いた。

「ねえ」

「はい?」

練習が終わり、彼女は楽器を片付けている。
天羽と交わしたあの話。彼女に持ちかけてみよう。

「僕は、君に恋をしてみることにした」

「………は?」

女の子はあからさまに顔を歪めてかたまった。

「今、付き合っている人は?好きな人とか。いる?」

「いえ…いませんけど…」

「なら、大丈夫だね。僕は君に恋をする。できれば、君も僕に恋をしてほしいんだけど」

「………は?」

話が読めないらしい。
しかし、それも当たり前だ。
突飛なことを言っている自覚はある。

「そ、それって。あなたが私を好きになったってこと…なんですか?ていうか、告白されてるんですか?私」

「ちょっと違うかな。僕は―――」

 

今までのいきさつを話すと、彼女は微妙な顔で考え込んでいた。

変な人に捕まっちゃったなぁ、という視線で見つめてくる彼女。

「無理にとは言わないよ。付き合わせるんだし。…でも、僕は恋を知りたい」

「………。わかりました、いいですよ。あなたのこと…好きになれるかはわからないけど、練習に付き合ってもらえるなら私も助かるし」

「いいのかい?…よかった」

天宮が微笑むと、彼女は頬を赤らめた。

「僕は天宮静。…ああ、話す時は敬語じゃなくていいよ。恋人同士は、敬語で喋ったりしないんでしょう?」

「いやまあ、それは人それぞれだと…」

「そういうことで。…これから電話しにいかなきゃいけないんだ、じゃあ」

早速天羽に報告しよう。天宮はスタジオを出ようとした。

「あっ、待って!」

袖を掴まれる。

「なに?」

「わ、私は小日向かなで」

そういえば、彼女の名前を聞いていなかった。
天宮は微笑んで頷く。

「小日向さん、だね」

 

『も、もう恋をする女の子が見つかったって?!』

天羽に事情を話すと、彼女はたいそう驚いていた。
まだ喫茶店にいるなら直接話そうと思ったのだが、残念ながら彼女は帰ってしまっていた。

『し、しかも事情を話したって…何してんのよ、も~…』

「話したらいけませんでしたか?」

『当たり前じゃない!そんな、恋をしたいから付き合ってくれ…なんて、その子で実験してるみたいな言い方じゃない。普通、そんな申し出されたら怒るわよ!』

「そうですか?実際、彼女はOKしてくれましたよ?」

『………。その子も、あんたに負けず劣らず変わり者みたいね…』

「実験…か。面白い響きだな。今回のこと、そう呼ぶことにしようかな」

くすくすと笑う天宮。

『ま…まぁ、相手が承諾してくれたなら別にいいけど。じゃ、何かあったらまた連絡して!』

 

通話を終えた後、天宮は自宅のピアノを弾いていた。

「………やっぱり、まだだめか」

以前の自分のピアノとまったく同じ。

「…まぁ、まだ恋をしてから日もたっていないし、仕方ないか」

恋を深く知れば、きっと自分のピアノも変わるはず。
なんだかワクワクしてきた。

これが、この気持ちが「恋」なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

『ふむふむ。ほぼ毎日一緒に練習して…へ~、意外とうまくいってるのねぇ』

天宮が「恋の実験」を始めてから、数日が経過していた。

恋をしている者同士がなにをすべきかまったくわからない天宮は、天羽から受けたアドバイスを元に行動していた。

デートをするべき、とか。
贈り物をするべき、とか。

どれもかなでは喜んでくれたから、やはり天羽のアドバイスは本物だ、と彼女を全面的に信用していた。

『で?どうなの、あんたは心から彼女を好きになれた感じ?』

「えっ…」

そう言われて、天宮は動揺した。
「心から」?
心から、の意味がわからない。

確かにかなでと一緒にいるのは楽しいが、「心から彼女が好きだ」と考えたことはない。

『どうなの?』

「…わからない。彼女のことは好きだけど…。それが、心から、なのかどうかは」

『…話を聞いてる分には、彼女はあんたにぞっこんみたいだけどねぇ。彼女を傷つける真似だけはしないようにね?恋をしたら、最後まで責任を持って接しないと』

「…まるでペットを飼う時の心得みたいですね」

『じゃあ、また進展があったら教えてね!』

通話を終え、天宮は学院を出る準備をしていた。
今日はかなでと練習をする約束をしているのだ。

「天宮くん」

不意に、後ろから声をかけられた。

「御影さん…」

「最近、よく電話をして出かけているようね」

「…生徒の挙動を逐一監視するのも、理事の仕事ですか」

「そんな刺々しいこと言わないで。なあに、もしかして恋人でもできたのかしら?…まさかね。あなたが恋なんてするはずないもの」

「………」

その時は、何も考えていなかった。
せせら笑う彼女を見返してやりたい、ただその一心で。
こんな軽はずみなことをしたのは、初めてかもしれなかった。

「あながち間違ってはいませんよ」

天宮は、一部始終を御影に話してしまった。

 

「まあ…」

「僕はもう、先生に従うだけの人形じゃない。僕だって、恋をすることはできる。まっとうな人間の心を持っている」

「けれど、あなたは実験をしているだけなのでしょう?星奏の彼女はあなたのことを好きみたいだけれど。あなたはただ実験をしているだけ。そんな一方通行な関係、恋人同士とはいえないし、あなたが恋をしているなんていえないと思うけれど?」

「っ………」

天宮は何も返すことができず、学園を去った。

違う、僕は
僕だって、彼女を「好き」なはずだ。
それがどんな感情か知らないから、そうだ、とはっきり答えられないだけで。

そうだ、証明をしてみよう。
彼女と―――

 

「愛のあいさつ…?」

「覚えているかい?僕たちが出会ってすぐくらいの頃、一緒に弾いた曲」

あの時は、全然ダメだった。
曲としては弾けていても、「愛のあいさつ」という曲をまるで表現できておらず。
頼まれたから弾いたのに「ダメだ」と言われ、かなではひどく憤慨していたっけ。

「うん、いいよ」

「はい、楽譜」

♪~♪♪♪♪♪♪♪~♪~♪~…

「(………!)」

曲を弾き終えてからも、天宮はドキドキしていた。
「うまくいった」そう確信したから。

でも、「うまくいった」と思ったのは自分だけかもしれない。
天宮は、おそるおそるかなでに聞いた。

「………どうだった、今の」

「うん!うまく弾けたね~!すっごくよかったと思う!…自画自賛かな?」

「………!いいや。僕も、すごくよかったと思う。よかった、君にもそう思ってもらえて」

「なんで?不安だったの?」

「…うん。前と同じような演奏だったら、どうしようかと」

「すっごくよくなったと思うよ!天宮くんの演奏も、前と比べたらすごいよくなった!もともと上手だったけど、最近の天宮くんの演奏はもっと!」

かなでの笑顔を見て、天宮の胸は高鳴った。

…そうだ。

演奏の評価など、議題となる曲と聞き手がなければわかるはずがない。
天宮が一人でそれとなく弾いたって、よくなったかなんてわかるわけもないのだ。

自分でわからなかっただけで、天宮のピアノは、確かに上達した。

それは―――恋を知ったからだ。

「(僕は、ちゃんと証明してみせた…!)」

天宮はまぎれもなくかなでに恋をしている。
一方通行なんかじゃない。
それはとうに、実験の域を超えた。

心の内から、嬉しさが込み上げてきた。

「(これが…恋…?)」

「天宮くん?…どうしたの?」

「君のおかげで…。僕は、知ることができたよ」

「…何を?」

「今はまだ、秘密」

 

「そうだ、小日向さん」

「ん?」

後片付けをしながら、天宮は言った。

「今度、またデートに行こうよ。映画を観にいくのはどうだい?」

「映画?!うん、行きたい!」

嬉しそうなかなでを見て、天宮もまた嬉しくなった。
相手と幸せな気持ちを共有する。まるで伝染するかのように、幸せな気持ちが伝わってくる。
これが、恋。

人形だった自分にはわからなかったもの。

全国大会に全力で臨むかなでを見ているうちに、同じく全国大会に参加する意味や価値も見出だした。
今まで義務でしかなかった音楽が、ずっと素敵なものに変わった。

「じゃあ、待ち合わせは―――」

 

 

 

 

 

 

 

「(いったん家に帰って…それから行っても………ああ、間に合いそうだ)」

アンサンブルの練習を終え、天宮は学園を出ようとしていた。
今日はかなでとのデートの日。
今まで、彼女と一緒に過ごすことがこんなに楽しみだと思ったことがあっただろうか。

天羽にも、頻繁に連絡をしていた。
天宮がかなでに恋しているのだと、はっきり打ち明けた時は彼女も嬉しそうだった。

恋は、楽しくて、幸せなことばかりだ。
………この時までは、そう思っていた。

「天宮くん。練習は終わったのね」

廊下ですれ違った御影に、そう言われた。

「………ええ。さようなら」

「これから出かけます。すぐに車に乗ってちょうだい」

「…は?」

「これでもアンサンブルの練習が終わるまでは待ってあげたのよ。冥加くんもうるさいしね。呼びにいこうと思っていたのだけど、やたら急いでいるわね。もしかして、知っていた?」

「は…?僕は、これから予定が…」

「レコード会社の方がね。あなたの演奏を聞いて、是非一度会いたいと言ってくれたのよ」

「………!」

「それで、これから会いに行くの」

「…っ。他の日に回せないんですか。今日は約束が…」

「約束…?これからのあなたの音楽に有利すぎるほど有利な話より、大事な用があるというの?」

そんなものあるわけないわよね、と御影は笑った。

「もしかして、例の彼女…小日向さん?」

「………」

「…天宮くん」

御影は今度は呆れたようにため息をついた。

「そもそも、あなたが恋をしようと思ったのは音楽のためでしょう?」

「それは…」

「だったら、すぐにいらっしゃい。そうそう、携帯の電源はちゃんと切ってね。…気が散ってしまわないように」

天宮の気持ちをわかった上でこんな話をしてくる御影がたまらなく憎かった。

しかし、御影の言うことももっとも。
天宮は、音楽のために恋をしてみようと思ったのだから。

かなでと会うことが、彼女とデートすることがあんなにも楽しみだったのに。
今、車に乗るのを断ってかなでとの待ち合わせ場所へ駆け出したい気持ちを押し殺す。

「さあ、どうするの。といっても、選択肢はひとつだけれど」

「行き…ます」

そう答えた天宮の瞳は、色を失っていた。

 

 

 

「天宮くん…遅いなぁ…」

待ち合わせ時間からかれこれ30分。かなでは映画館の近くで天宮を待っていた。

「(っていっても…。前にも待ち合わせに遅れてきたし。もう少し待ってみよう)」

観る予定だった映画の時間は過ぎてしまったが、まだ次の上演がある。
かなでは根気よく天宮を待った。

 

「(雨………)」

もう、2時間。いや、2時間半は待っただろうか。
天宮は来ない。

雨が降りだしてしまった。
足早に映画館から去っていく人々を見送りながら、かなでは考える。

「(もしかして…約束、忘れちゃった?何か急な予定が入った?携帯も繋がらない…)」

何度か携帯に連絡を入れたものの、天宮は携帯の電源を切っているようだった。

まさか、事故に遭って連絡が取れないんじゃ…
天音学園に行ってみれば、何かわかるかもしれない。
けれど、かなでがこの場を離れているうちに天宮が来たら?

そう考えると、ここを離れるわけにもいかなかった。

何度か映画館を離れて様子を見にいったせいで、かなでの体は雨に濡れてしまった。
…寒い。

「(まさか…。天宮くん、わざと…?私との関係は、実験でしかないから…?)」

そう思って、ぶるぶると首を振る。

「(違う!…天宮くんは、そんなことしない!)」

愛のあいさつをうまく弾けた時、天宮は本当に嬉しそうだった。
あの笑顔が偽物だなんて、思えない。

自惚れじゃない。
最初は実験でしかなかったかもしれないが、今は―――

 

 

 

「…すみません。コスモワールドの近くで、降ろしてもらえませんか」

「どうして、天宮くん」

レコード会社の人間との話し合いを終え、天宮は自宅に向かう車の中にいた。

話し合いをしていても、頭を占めていたのはかなでのこと。
話の内容など、ほとんど覚えていなかった。

連絡のひとつくらいできたのに。
天宮は、かなでに何も告げず、約束をすっぽかした。

きっと、愛想を尽かして帰ったとも思う。
けれど、実際に自分の目で確かめなければ、とそう思った。

「小日向さんのことを気にしているの?大丈夫よ、待ち合わせにきていたとしても、とっくに帰っているわ。にわか雨も降り出したし、もう4時間もたっているのよ」

「話し合いは終わりました。ここからは僕の自由時間だ。あなたに指図されるいわれはない。…運転手さん、停めて下さい」

「本当に難儀な子ね…」

 

「………さむ」

最後の上映時間はとっくに終わった。
雨のせいもあり、周りに人もいない。
…もし、これから天宮が来たとしても、映画を観ることはできない。

それでも、彼に会うまでは、ここにいなければいけない気がしていた。

「小日向さんっ………!」

天宮の声と、姿。
ざあざあ降りの中、走ってくる。
もしかして幻なんじゃないかと思ってしまうのは、雨に濡れた寒さで意識が朦朧としていたからだろうか。

「なんで…っ」

抱きしめられて、本物の彼なのだと知る。
かなでがずっと待っていた、彼。

「なんで待っていたんだ!僕は…っ。君との約束を、連絡もせずに破ってしまったのに!」

安心して、足の力が抜ける。
天宮がしっかりと抱きしめてくれているおかげで、かなでの体は崩れ落ちずにすんだ。

雨に濡れた体には、天宮の体がとても温かく感じた。

天宮は泣きそうな顔でかなでを見つめ、「僕の家に行こう」と言った。

 

 

 

「(ここが、天宮くんの部屋…)」

天宮の家に案内されたかなでは、まずはシャワーを浴びるように言われた。
それから、服を乾かしてもらって…

雨で冷えた体は、すっかり温まった。

「ごめん…。本当に」

ここに来るまで、天宮はずっと謝り通しだった。
レコード会社の人間に呼ばれ、約束を破ってしまったことも聞かされた。

しかし、かなでは最初から怒ってなどいなかった。

「………。どうして君は怒らないの?雨の中長時間待たせてしまったことも…映画を観ることができなかったことも…。いっそ罵倒してもらった方が気がラクなのに」

「ば、罵倒?!そんなことしないよ!」

「なぜ…?」

「…天宮くんに会えたから。映画は残念だったけど、私は…最初から、天宮くんに会えるだけで嬉しかったんだよ。それに、レコード会社の人に呼ばれたんでしょ?私との約束なんかより、そっちの方が大事だもん」

…どうして彼女は、こんな風に笑えるんだろう。
あんな仕打ちを受けても。

自分だったらきっと、呆れてすぐに―――
いや…

「…君は、僕を疑わなかったの?」

「疑う…?何を?」

「僕が君に恋をしたのはただの実験で。君を弄んで楽しんでいた、って」

「そ、そうだったの?」

「い、いや。違う、けど。僕が君の立場なら、そう考えると思うから」

「…そうかな」

かなでは微笑んだ。

「もし、天宮くんが私の立場でも。…きっと同じようにしてたんじゃないかな。…って、自惚れ?」

「小日向さん…」

天宮はかなでの体を抱きしめていた。
こうしようと思ってしたのではない。無意識にしていたのだ。
たまらなく愛しくて、どうしたらいいのかわからなくて。
そしたら、抱きしめていた。

「…君の体は、温かいね」

「う…うん。シャワー、浴びさせてもらったから…」

さっき抱きしめていた時は、とても冷たかった彼女の体。

あんな仕打ちをしてしまったことを、これから償っていかなければ―――

天宮は心に誓った。

 

 

 

 

 

 

 

しばらく忙しくて、天羽にはかなでとのことを報告できない日々が続いていた。
今日は時間ができそうだ。できれば電話ではなく、あの喫茶店ででも…

「天宮くん」

…御影だ。
彼女に話し掛けられるとろくなことがない。
天宮はしぶしぶ返事をした。

「なんですか、御影さん」

「今日、理事長が日本へいらっしゃいました。…天宮くん、あなたに話があると」

「………!先生…が…?」

「ええ。わざわざ戻ってきて下さったのよ。あなたの部屋に行くとのことですから」

「……………」

いやな動悸がする。
その名すら、自分の口から出すことを拒んでいた。

彼が日本を離れてからも―――
ずっと畏怖してしたその人物。
なぜ、今

彼が、帰ってきたのか―――――

 

 

 

「お久しぶりデスね、セイ」

「…お久しぶりです、先生」

部屋に訪れたアレクセイと対面した天宮は、彼の顔を見ることができなかった。
この場に御影がいることが、唯一の救い。

「セイ。人と話す時は目を見て…と教えたはずデス」

「………」

ゆっくりと顔を上げる。
一見紳士的ないで立ちの彼…
しかし、その双眸はあまりに冷たい。

怖い―――

その感情だけが、天宮を支配していた。

「ピアノを弾きなさい、セイ」

「わかり…ました…」

絶対に逆らうことはできない、彼の言葉。
天宮は、言われるままピアノを弾いた。

♪~♪~…♪♪♪~♪~…

 

「ブラボー!素晴らしい。心に響く、いい音色になりまシタ」

「………」

「本当にね。やはり…」

「セイ、君は恋をしまシタね。そして、私が望む音色を手に入れまシタ」

「(私の望む…音色だと…)」

握ったこぶしは震えていた。

「(僕は…。先生のためにこの音色を手に入れたわけじゃない…っ)」

「セイ、私と一緒に来るのデス。そうデスね、25日の飛行機で発ちまショウ。………私の元で、更に音色を磨くのデス」

「ちょ…、ちょっと待って下さい!25日は、全国大会のっ…」

「………セイ。私のいうことがきけないのデスか?」

「………!」

ボクハ…
センセイノ…

いや!違う、もう僕は人形なんかじゃない!

ボクハ…
センセイノ…
イイナリ…

違う!違う!
僕はもう、先生の言いなりなんかじゃ…!

ボクハ
ニンギョウ
センセイノ
イイナリニシカ
ナレナイ

ニンギョウ

「………わかりました」

「いい子ね、天宮くん。では、先生はお先にお戻りになって下さい。25日の飛行機で、私が責任を持って天宮くんを送り届けますわ」

「頼みまシタよ、リョウコ。では、私はこれデ」

にっこり笑って手を振ると―――
アレクセイは天宮の部屋を出ていった。

「じゃあね、天宮くん。25日までには荷物をまとめておくのよ?」

御影もアレクセイの後を追うように部屋を出ていった。

「は…はは…あはははは…!」

天宮は涙を流し、笑いながら崩れ落ちた。

「僕が望んだことじゃないか!先生の元でピアノを奏で、いつか先生のオケで演奏をする!そのためだけに恋をしたんだ!」

天宮しかいない部屋で、悲痛な叫びは誰に聞こえるわけでもなく響く。

「僕は…やっぱり人形なんだ…。あの人の言いなりにするしかできない…人形だ…」

海外へ行く。
それは、かなでとの別離も示していた。

せっかく、恋を知ることがてきたのに。

幸せな日々が続くと思っていたのに。

胸が、苦しい。
辛い。悲しい。

「(これも恋…なんだろうか…)」

胸をわしづかむ。
恋…それは、嬉しい、楽しい、そんな感情ばかりだと思っていたのに。

どうしたらいいのかわからない。
この胸の痛みは、どうしたらおさまるのだろう。

「(そうだ…、電話…)」

かなでに電話しよう。
どうしたらいいのか、相談しよう。

天宮は携帯を手に取り、かなでの番号を表示させた。

「………」

通話ボタンを押そうとする手が止まる。

…かなでが、レコード会社の資料を見ていた時のことを思い出した。

彼女は、あんなに待たせられたことをちっとも怒らなかった。
むしろ、レコード会社から声をかけられたことを自分のことのように喜び、祝ってくれて―――

『天宮くんの夢が叶うなら、離れるのは仕方ないよ』

そんな風に言われたら?

『私も実験に付き合ってただけだし、別にいいよ』

…だめだ。
どちらも怖くて仕方ない。

音楽より君を選びたいだなんて―――口に出せない。

では、どうしたら…

「そ…、そうだ」

天羽に相談しよう。
このところ、かなでとのことを報告できないでいたから、連絡しようとしていたんだった。

恋をすることを勧めてくれたのは彼女だ。
きっといいアドバイスをくれるに違いない。

 

「………というわけなんです。僕は…。どうしたらいいんでしょうか」

『………』

かなでとの約束を破った日のこと。
全国大会のファイナルの日、アレクセイに従い海外へ行くことを決めてしまったこと。
でも、海外になど行きたくない。

正直、天宮はどうしたらいいのかわからなかった。

『………知らないわよ、そんなの』

「えっ…」

『あんたはどうしたいわけ?』

「っ………。僕は…。海外に行かずに、日本に留まって、小日向さんと一緒に…いたい。ファイナルにも…出たい…」

『なら、そうすればいいんじゃない?』

「それができないから相談しているんです!…僕は先生に逆らえない」

『なら、海外に行けば?』

「でも…!」

『あー。もう、じれったいわね!でもでもって、そんなの自分でどうにかするしかないじゃない!』

「…っ。僕に恋をすることを勧めたのは天羽さん、あなただ。…少しくらい相談に乗ってくれてもいいじゃないですか」

突き放す…というより、どうでもいいことのように受け答えする天羽に、天宮はむっとしていた。

これまでは、あんなにかなでとの話を親身になって聞いてくれていたのに。
掌を返したような態度に戸惑う。

『…あんたは、私に言われたから恋をした。じゃあ、彼女を好きになったのも私に言われたからなの?』

「そ…、それは」

『きっかけは私の言葉でも、彼女を好きになったのはあんたの意志でしょ。なら、あんたが考えて、あんたがなんとかしなさいよ』

「………」

『じゃあね』

無情にも電話は切れた。

「(僕は…どうしたら…)」

 

「………」

「…天羽ちゃん」

天羽は携帯をぱたんと閉じ、ため息をついた。

「ちょっと…厳しすぎるんじゃないかな。天羽ちゃんが考えてることはわからないでもないけど…」

「…ここで私が道を示しちゃったら、あの子はまた人の言いなりになることになるのよ?」

天羽と天宮のやり取りを隣で聞いていた日野は、心配そうに顔をしかめた。

「あの子はちゃんと自分の意志で人を好きになれた。…だから、自分だけで考えて、きっと自分の心に従って道を選ぶことができる。…私は信じてるよ」

「………。さすが、有名音楽誌の編集長さん!いいこと言うじゃない!」

「そこでちゃかす~?!」

 

 

 

 

 

 

 

「君とはもう会わないと言ったはずだよ」

冷たく言い放って閉めたドア。
それでもまだ、ドアの向こうにかなでの気配を感じる。

―――海外に行くと決めた日から、天宮はかなでをことごとく避けていた。
もう会わないというメールを送った。

それでもなお、かなでは天宮にコンタクトを取ろうと近づいてきた。
今も、こうして。自宅まで訪ねてきた。

…彼女からしたら、何がなんだかわからないだろう。
突然このような仕打ちを受けたのだから。

「会いたい」という気持ちを殺して、天宮はドアに背を向けた。

「小日向さん、もう諦めなさいな」

「でもっ…!納得いきません!」

「………!」

ドアの向こうからかなでと御影の声が聞こえてくる。

「天宮くんはね、先生と海外に行くことが決まったの。あなたと恋をしたことで、あの子の音色が変わったから」

「………!」

「その点では感謝しているのよ。きっと、あの子もね。…でも、あなたは利用されただけ。天宮くんの音楽のために、実験台にされただけなのよ」

「っ…」

「あの子は先生の言うことは絶対に聞くし、聞かなければならない。先生の人形も同然。だから、あなたが今何かを訴えたところで、耳を貸さないわ」

「(その通り…だ…)」

御影のずいぶんな物言いにも、怒りすら覚えなかった。
きっとかなでは、そんな自分の愚かさを目の当たりにして愛想を尽かすだろう。

…嫌われたくなかった。
けれど、もう。いっそ嫌ってもらった方が、ラクなのかもしれない。

「最初はそうだったかもしれませんけど、今は違います!」

「(え………)」

強く言い放ったかなで。

「自惚れなんかじゃありません。天宮くんは、絶対に私のことを好きでいてくれてるはずです。それは、誰かの言いなりになって好きになってくれたんじゃない。天宮くんが、自分の意志で私を好きになってくれたんです」

「まあ…。たいそう自信家なお嬢さんだわ」

「だから、天宮くんはきっと自分の意志で行動してくれるはず。海外に行ってしまっても、日本に残るとしても、それは天宮くんが自分で考えて決めることです。私はそう信じてる!」

「(小日向さん…)」

今すぐ扉を開けたい衝動を、懸命に抑える。

「…なら、あなたはなぜここに?天宮くんは、海外に行くと決めたのよ。彼の意志を尊重するなら、そっとしておいてくれないかしら?」

「それは…。天宮くんが、まだ何かに迷ってるような気がしたから。本当に彼自身で決めたことなら、私にきちんと話をしてくれるはず。なのに、何も聞かせてくれないから」

「………。小日向さん、もう帰りなさい。時間も時間だし、ファイナルで競うライバル校のあなたがいつまでもこんなところにいるのはよくないわ」

「………。わかりました」

かなではおとなしく帰っていったようだった。

…かなでは、天宮を信じている…。
怖くて言いなりになるしかない天宮を、自分の意志を貫ける人だ、と言い切った。

かなではあんなに信じてくれているのに、自分はかなでを裏切るのか―――?

「………買い被りすぎだよ、小日向さんは」

僕は、君に信頼してもらえる人間じゃない。
ただの、人形だから―――

 

 

 

 

 

 

 

「…ずいぶんと言葉少なね。先生のもとで音楽を学ぶ…念願叶ったのだから、もう少し喜んでもいいのではなくて?」

「………」

8月25日。
全国大会ファイナル当日。

午前の部が始まった時間、天宮は御影と共に空港に向かう車の中にいた。

「考えてみれば、あなたはもともとこうだったかもしれないわね。何を言われてもだんまりで、必要な時しか喋らない。喋れと言われたら喋る。…最近のあなたの方が、どうかしていたんだわ」

「………」

目だけ動かして外の景色を見遣る。
無情に流れていく景色―――

かなでといたら、この街のイルミネーションに心を打たれ、二人ではしゃいでいたかもしれないのに。
今は、何も感じない。

 

―――やっと、気づいた。

 

恋をしたことで、新たな音楽を手に入れた。
でも、感情を押し殺すことは感情がないのと同じ。

このままかなでと離れ離れになり、海外に行ったところで―――

人形に戻ってしまった自分に、いい音楽を作り出せるとは思えない。

「小日向さんには可哀相なことをしたかもしれないけれど、一時の感情に流されるのは愚かなことよ。くだらない感情は押し殺すの。そうすれば、もっといいことが待っている…ということだって、あるのよ?」

「………。それは、ご自分のことをおっしゃっているんですか?」

天宮はゆっくりと御影の方を見た。

「あなたはずっと感情を押し殺し、先生のそばにいたんですか。そして…先生の言いなりになってきたんですか」

「っ…何を…」

「あなたも僕も同じだ。先生の人形。でも、僕は―――」

ボクハ………

チガウ!

「僕は、ずっと先生の言いなりになっているわけにはいかないみたいだ。人形としては、不良品でしたね」

「!」

赤信号で車が停車した。
天宮はすかさずドアのロックを外す。

「先生のそばには、御影さん。あなたが一緒にいてあげて下さい」

「天宮くん………っ!」

「(君から勇気をもらったよ、小日向さん)」

天宮は車から飛び降り、来た道を戻り始めた。
全速力で。

何事かと振り返る人々を気にしてなどいられない。
午後の部には間に合うように―――

午後の部でピアノを演奏すること。
それが、「人間としての証明」それから、「かなでへの想いの証明」になる気がした。

―――思えば、先生の言い付けに逆らったのはこれが初めてだ。
でも、なぜこんなにも清々しいのだろう。

こんな土壇場になってアンサンブルに参加させてほしいと申し出ても、冥加は首を縦に振らないかもしれない。

かなでは、身勝手な仕打ちに既に愛想を尽かしているかもしれない。

…それでも、いいと思った。

自分の思うままに道を決めるということが、こんなにも嬉しいから。

 

 

 

 

 

 

 

「…それで」

天羽はメモに書き込んでいた手を止め、顔を上げた。

「あんたはアレクセイ氏のもとで音楽を学ぶ権利を永久に失った…ってわけ?」

「そんなことはありませんよ。なんのお咎めもなかった。…御影さんがうまく立ち回ってくれたんじゃないですか。それか、冥加かな」

「なによ、あんた何気にいい仲間に囲まれてるんじゃない」

「仲間…なのかな。御影さんも、根は悪い人じゃないんです。先生に惹かれるあまり、先生の言いなりになって…だから、どちらかというと被害者の会、みたいな」

「あははっ、うまいこと言うじゃない!それ、もらい」

「今のはオフレコです」

「ちぇっ。…まぁ、いいわ。今までのメモをまとめれば…うん、5ページは特集できるわね」

再び熱心にメモにペンを走らせる天羽に、天宮は言った。

「…天羽さん?」

「へ?ちょっと待って、今いいキャッチコピーが…」

「…僕に何か、隠していることありません?」

はた、と天羽の手が止まる。

「か…隠してるって、何が?私は、なーんにも」

「これ」

天宮は、鞄から一冊の雑誌を取り出す。
天音学園の図書室に置かれていた音楽雑誌。

「編集長のAMONAMI…これ、天羽さんですよね」

「!!!」

「ひねりのないペンネームだなぁ。これじゃあバレバレですよ」

雑誌をペラペラとめくりながら天宮は笑う。

「な…なんで、あんたがそれを…」

「天音学園は音楽のスペシャリストを育成する学校ですよ。図書室だって、自然に音楽関係のものばかりになる。…音楽雑誌だって、出版されているものは全て揃えられています」

「ぐっ…」

「ジャーナリストのたまごだのフリーライターだの…。わからないのは、なぜ音楽雑誌の編集長として僕に接触しなかったのか、です。あなたが発行している雑誌は、音楽誌の中でトップの売れ行きを誇っているんでしょう。…身元を明かしてくれれば、僕だって素直に取材を受けたかもしれないのに」

「それはね」

「!」

ぽん、と天宮の肩が叩かれた。
振り返り、そこにいたのは―――
見知らぬ女性。
が、どこかで見たことがあるような気もする。

「天羽ちゃんは、副業で駆け出しの音楽家の発掘と育成をしてるの。身元を明かすと調子に乗る子もいるからね。フリーライターを名乗るのは、その予防線ってわけ」

「ちょ、ちょっと香穂子!」

「香穂子…?」

ああ!と天宮は目を見開いた。
彼女は件の女性ヴァイオリニスト…
日野香穂子。

「初めまして。天宮くん…だよね」

「ええ。お会いできて光栄です」

「もー…。なんでここで出てくるかなぁ」

「ふふっ、邪魔してごめんごめん。外から、二人が喫茶店にいるのが見えてさ」

「………。なるほど。そういうことだったんですか…」

「この歳にして、女性で、編集長ってすごいでしょ?」

「そうですね。…でも、ご自身に音楽の経験がないのに、どうやって育成を?」

「ちっちっ。私が育成したいのはね、技術的な部分じゃなくて心の部分。…あんたも、そうだったでしょ?」

「あ…」

今までのことを思い返し、天宮は納得した。

「いい音楽家が増えるのと、その過程を記事にして両者とも利益は充分!こんなおいしいビジネスはないわよ!」

「やり手だよね、天羽ちゃん…」

「でもさ、私がやりたいことはまだ半分もできてないのよ。いずれは、音楽家になりたい学生のための奨学金制度を作ったり、楽器を買うお金の援助とかしたくてさ。…みちのりは遠いわ」

はあ、とため息をつく。
同じく、天宮までため息をついた。

「天羽さんみたいな人が天音の理事長になってくれればよかったのに…」

「わ、私が?!無理無理、あんたんとこ、妙な生徒しかいないじゃない!そんな子たちの面倒はさすがにみれないって!」

「あはは、言ってくれますね」

「天宮くんは、小日向さんとうまくいってるの?」

香穂子はからかうように天宮を見つめた。

「…ええ。毎日一緒に過ごして、練習をして…とても幸せです」

「………!」

顔を赤らめる天宮を見て、天羽と香穂子は顔を見合わせた。

「………でも」

続けて、天宮はにっこりと笑う。

「こんなところで、きれいなお姉様がたに囲まれていると知ったら、彼女に怒られてしまうかもしれませんね」

「まっ!」

「そんなことまで言えるようになったの?!いや~、ひと夏でずいぶん成長したのね~!」

「というわけで、僕はそろそろ失礼します。…これから彼女と練習するんです。いい記事書いて下さいね」

見たこともないような笑顔で喫茶店を去る天宮を見送り、天羽は言った。

「…あの子はいい音楽家になるね」

「うん。話に聞いてたより、ずっと明るい子」

「彼女の小日向さんも、香穂子みたいなヴァイオリニストになれるかね?」

「あんな素敵な彼氏がいるんだもん、なれるよ!私も負けないように頑張らなきゃなぁ」

「私も!…まだまだ、叶えてない夢はたくさんあるからね!」

―――大人になっても、まだまだ夢は終わらないよね。

そう言って、二人は微笑み合った。

END