unabsichtlich


「みょ、みょーがさんっ…」

たたた、という足音と共に、控えめな呼び声がした。
冥加は声の主をわかっていながら、振り向くことをしない。

それは拒絶の意ではないのだが、本意は彼自身にしかわからないことで、
他人にとっては「無視」と呼べるものだった。

「あ、あの、」

かなではパタパタと冥加の前に回り込み、ずい!といつもの野菜ジュースを差し出した。

「こ、これ。どうぞ!」

「………」

ぎゅむ、と冥加にそれを押し付けると、かなでは来た方向に走り去った。

夏休みによく見られた光景は、残暑の厳しい九月に入っても健在だった。

「………」

冥加は握らされた野菜ジュースを一瞥すると、それを制服のポケットにしまい込み、その足で花屋に向かった。

 

 

 

「君は」

夕刻の菩提樹寮。
かなでがラウンジの扇風機の前を陣取り、女性向け雑誌を読んでいると、ニアがソファーの背からちょこんと顔を出し、こう問い掛けてきた。

「冥加玲士のことが好きなのか?」

「えっ」

突然の問い掛けに、かなでの顔は額から顎まで真っ赤に染まる。
それは是を意味していたが、ニアが確かめたいのはそこじゃない。
そのくらいはもうとっくに、公然の秘密であった。
本人は隠しているつもりらしいが。

「な、なんでそう思うの?!どうしていきなりそんなこと聞くの?!何がどうしたの?!」

あからさまにテンパっているな…とニアは苦笑したが、まずは根元から掘り返してみるか、と順を追って質問を投げ掛ける。

「やけにあの男に構うじゃないか。夏の間も、私に奴の情報ばかり聞いてきただろう。せっかく他の男の情報も集めていたのに、夏が終わってからは個人情報保護に基づきみなシュレッダー行きだ」

「だってそれはその、そのう」

「今日も奴に野菜ジュースを渡していたな。毎日毎日、礼も言われないとわかっていながら、健気なものだ」

「はふう」

「そんなに好きなら告白して、男女交際を始めればいいじゃないか」

「!」

ふしゅしゅ、と音をたてながらかなでは小さくなった。
状況証拠を並べられたら、否定することはできない。

…以下、かなでの談。

かなでは、小学生の頃出場したコンクールである男の子に出会った。
ヴァイオリンの弦を切らせてしまい、泣いていたところを慰め、弦を張り直してくれた年上の男の子。
ぶっきらぼうだが優しい、かっこいい男の子だった。

かなでは小学生ながら、彼に一目惚れした。
まだ付き合うとか、そういった概念は存在していない頃の話だ。それでも、好きな人のために何かしたいと思うのは、いくつでも変わらない気持ち。
…その気持ちが、仇になってしまった。

好意からとはいえ、かなでの失言で彼は怒り、かなでを憎んだ。
小学生とは思えないほどの辛辣な言葉と、憎しみをこめた眼差しを受け、かなではショック状態に陥る。

心神喪失したかなでは、コンクールを辞退せざるを得なくなり…
帰宅して就寝した次の朝には、彼の記憶はかなでの頭の中からすっぽりと抜け落ちていたのだった。

彼のことを忘れたくなんかなかった。
初対面で、あれきり会うこともなかったかもしれない男の子―――かなでを罵倒し憎んだ彼だとしても、淡い恋の記憶と、罪の記憶を忘れたくなんかなかった。
しかしかなでの幼い体は、重すぎるショックに耐え切れないと判断し、彼の記憶の一切を封印してしまったのだった。

そして、七年後。
それからは、ニアも知るところである。

「憎まれていると知りながら、その相手を追いかけ続けるのは奇特だな」

「…うん。私ね。ずるいのかもしれない」

「ずるい…?」

「私、あまり人から激しく嫌われたり憎まれたりした経験がなくて。だから、私を憎んでる相手…冥加さんに、どうにか許してほしくて、もう憎んでないよって言ってほしくて、その気持ちを好きだって思い込んでるのかもしれない…。だからね、付き合って下さいなんて、言えない」

冥加に対する執着が、恋愛感情なのか、ただ人から憎まれているという事実から解放されたいという気持ちなのかわからないというかなで。
確かに彼女は、争いごとを嫌い、どちらかというと物事を穏便に済ませようとする癖がある。

「…ほう」

ニアは感心したように頷いた。

「君がそこまでのことを考えていたとは知らなかった。いや、あっぱれ。告白する勇気がでないだの、断られたらどうしようだの、大方そんなところだと思っていたよ」

「そ、それは。確かに断られたらって考えると、怖いよ。だけど、断られたら断られたで、答えを出してくれたことには嬉しいって思うと…思う」

ニアは少々、かなでを見くびっていたようだ。
彼女は彼女なりにしっかりとした考えを持ち、その上で悩んでいる。
それならば、こちらもしっかりと応援をしなければというもの。

「君の答えによっては、出そうか出すまいか決めかねていたシロモノだ」

ニアはポケットからミニサイズのメモ帳を取り出す。
彼女がいつも持ち歩いてるものとは違うもののようだ。

「シロモノ…?」

「星奏学院報道部最重要機密が記されたメモだ」

「えぇっ?!何それ?!」

ニアは得意げに前文を読んで聞かせた。

―――これは八年前、伝説の報道部員Aが危険を顧みず学院の恐るべき秘密を記した文書である―――

「…八年前、在校していた報道部員がな。可愛いものが大好きで、学院の妖精伝説に入れ込んでいたそうで」

「…あれ?仰々しい前文はなんだったの?」

「学院の正門前にファータ像があるだろう。あれの前で音楽の祝福を受けた生徒が夜八時に願い事をすると、なんと」

「なんと?!」

「叶うんだそうだ」

以上、とニアはメモ帳を閉じた。

「…えっと。それ、最重要機密っていうかただの噂話…」

「まあまあ。それでも八年の時を経て受け継がれているということは、それなりに何かしらの信憑性があるということだろう」

「それは…ちが」

「ほら。機密漏洩を侵してまで協力したんだ。今夜八時、ファータ像の前で願い事をしてこい」

「えぇっ?!…ニア、単に私を実験台にしたかっただけなんじゃないの?!」

「人生ギブアンドテイクだ。どんな結果になろうとも、最終的に双方に利益があればそれでよしだろう?」

「え~…」

せっかく真面目な話をしていたのに。
いつもこうなるなぁ、とかなでは呆れながらも、いくばくかの期待をもって学院に向かうことを決意するのだった。

 

 

 

「正門は…、よかった、開いてる」

ニアの話を受けて素直に学院へ来てみたものの、正門が開いているかどうか少し不安だった。
生徒や教師の姿は既になく、正門前のファータ像がやや寂しげにライトアップされている。

「えっと、…五十五分、か」

八時ちょうどでなければいけないという話は聞かなかったが、こういう噂はだいたい「○時ちょうど」がセオリー。
かなではファータ像の前まで行くと、時計を見つめて八時を待った。

…もし、もし噂が本当なら。
かなでの願いは叶う。

かなでの願いは、お金持ちになるでもなく、魔法が使えるようになるでもなく―――
と考えたところで、ふと思い出す。確か…

「音楽の祝福を与えられた者が願うと」というフレーズ。
…自分には音楽の祝福など与えられているのだろうか?
かなでよりヴァイオリンが上手い生徒など星奏学院にはたくさんいるし、全国大会で優勝したとはいえ、かなではまだまだ自身のヴァイオリンの腕に満足していなかった。

…せっかくここまで来たのに…
そう思って再度時計を確認すると、
あと三秒ほどで八時になるところだった。

「わっ、わっ、ちょ、ちょっと待っ、あっ、あっ!」

とりあえず目を閉じて、頭に願い事を浮かべる。
願うことはただひとつだったのに、焦ると思考がめちゃくちゃになる。

(えっ、えっと、えっと!みょ、冥加さんのことを、もっとよき知りたいですっ!そ、それからっ、もっと、仲良くなってっ、えっと、ちゅーとかする間柄にって私何考えてるの?!)

……………シーン。

願い事(?)を終えてかなでを待っていたものは、静寂のみ。
やってしまった…という後悔と共に目を開けて、俯いた。

そもそも、噂話なのに。
誰かに、何かに祈り願うくらいなら、自ら行動を起こす方が数倍も数十倍も生産的なのに。

はあ、とため息をついて地面を見つめていると、

………。

やけに、地面が近い。
いきなりの遠近感の変化に戸惑い、かなでは顔を上げた。

「(え…?)」

ファータ像が、ない。
というか、見えない。

目の前にはファータ像の土台の、それも下の方が見えるだけだ。

「(えっ?!えっ、どういうこと?!)」

自分の身に何が起こったのかわからず、混乱するかなで。
でも、周りのものが大きく見えるということは―――

「(わ、私、ちっちゃくなっちゃったの?!)」

妖精像の噂は本当だった?
いや、違う。
かなでは「小さくなりたい」などと願っていない。
でも、現実では起こり得ない超常現象が起こったのは事実だ。

「(どうしよおっ…)」

とにかく、菩提樹寮に戻ってニアにでも相談しよう。
かなでは学院を走り去った。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、」

小さくなった体では、正門を抜けるのも精一杯。
菩提樹寮への道はそれほど遠くないのに、まるで何十キロも走った気分だ。

「(………、きゃあ!)」

怪獣が大きな声をあげて襲ってきたと思ったら、車だった。
周りに人は歩いているが、かなでに気づいていないのか、特に気にすることもなく去っていく。
自分の今の姿が見つかったら何をされるかわからないので、ありがたくもあったが。

「はあ、はあ、はあ、」

「それでね、…あっ!」

女の子二人組のそばを駆け抜けようとすると、そのうちの一人がかなでの方を見遣って声を上げた。

「見て見て!」

「あっ!」

しまった!
見つかってしまったようだ。
かなではどうしよう、とびくびくおどおどしながら立ち止まった。

「可愛い~!」

「(…可愛い?)」

女の子たちはにこにこしながらかなでを見つめ、特に何をするわけでもなく、手を振りながら去っていった。
確かに、ミニサイズになったのだから、大きさは「可愛い」のかもしれないが…
あれが小さくなった人間に対する普通の反応なのだろうか?

「(ど、どういうこと…?)」

自分の姿を確かめてみなければ。
かなでは周囲を見渡した。
確かこのあたりには個人経営のパン屋があったはず。そこのガラスに、自分の姿を映してみよう。

自転車と車に注意しながら、かなでは走った。

 

「はあ、はあ、はあ、はあ、」

ようやく店の前まで来た。
ここから菩提樹寮までは、まだ半分以上もある。
それなのに、もうかなでの体力は限界に近かった。

その場に座り込んで、少しでも呼吸を落ち着けようとする。

「(そうだ、私…)」

店のガラス扉を見遣って、かなでは硬直した。
人通りはない。
そこに映っていたのは、…一匹の子猫。

「(う…、うそ…!)」

ガラス扉には子猫以外、街路樹が映し出されているだけ。
ということは、

かなでは、猫になっていた。

突き付けられた、理解しがたい事実に呆然としていると、
足の力が抜けた。
お腹も空いている。
子猫の体では、無理をしすぎたようだ。

どうしよう、なんとかしないと、と焦るものの、体が動かない。

「にゃあ…」

助けて、と呟くと、言葉は鳴き声に変わった。

「にゃあ…にゃあ、にゃあ…みゃあ…」

助けて、冥加さん!
私はただ、小さなお願いごとをしただけなのに!
これじゃあ、恋を叶えるどころか、普通の生活すらできなくなっちゃう…!
かなでの啜り泣きは猫の鳴き声に変わるだけだった。
道行く人も、少し目を向けて憐れみの表情を浮かべるだけで、誰一人として立ち止まらない。

このままここで死んでしまうのではないか?
そんな心細さが、鳴き声に変わる。

「(誰か助けて!私に気づいて!)」

「みゃあ!みゃあ!みゃあみゃあ!」

「………」

必死で助けを求めていると、目の前に白い何かが立ち塞がっているのに気づいた。
首が痛くなるほどに上を見上げて、それがなんなのか確認する。

「(え………!)」

その、白い何かの正体は、冥加だった。
正しくは、彼の足。

かなでの目の前に立ち尽くして、じっと見下ろしている。
その迫力たるや、恐ろしさすら感じるほどだった。

驚いて固まっていると、冥加はその場にしゃがみこみ、かなでに手を伸ばしてきた。

「(た、食べられちゃう!)」

反射的にそう思った。

「(―――きゃあ!)」

ふわりとした浮遊感と不安定感に驚く。
冥加はそっとかなでを抱き上げ、じっと顔を見つめてきた。

至近距離で彼の顔を見つめたことなどないかなでは、今の状況も忘れて胸をときめかせた。

「……………」

「(わ、わ…。まつげ、長い…!鼻、高いっ…。冥加さんの目って、こんな綺麗だったんだ…)」

いつも睨まれてばかりのかなでは、冥加の瞳をじっと見つめたことなどなかった。
よく彼の顔を見てみたいと思っても、ぎろりと睨まれると怖くて、つい目をそらし顔を伏せてしまっていた。

「(じいーっ…)」

ここぞとばかりに冥加を見つめる。
今、かなではかなでの姿ではない。子猫だ。
だからこそ、こうやって彼を見つめても、威嚇されたりしない。

睨みをきかせていない彼の瞳は、深く澄んでいた。
内側を見透かされてしまうような恐さはあったが、それは純粋な善の輝きであった。

「(冥加さん…)」

「にゃ」

彼を呼んだ声は、子猫の甘える声に変わってしまう。
けれど、かなでが彼を呼んだ時のように、睨みで返事をされることはない。

猫の姿だから…そう考えると、なんだか悲しくなってくるのも正直な気持ち。

「フッ」

「!」

冥加は眉頭を寄せて、困ったように笑った。
彼のこんな笑顔を見るのは初めてだった。

「(冥加さん…、こんな顔するんだ…。…あっ)」

冥加はかなでを抱き上げると、そのまま店に入っていった。

大きくてごつい手だが、ささくれひとつない綺麗な指。
かなでを抱き上げる手はうまく力加減をしているのか、優しかった。

 

「店主、失礼する」

「ん?ああ、いらっしゃい」

「店の前に猫がうずくまっていた。この店の猫だろうか?」

「えっ、猫?いや、うちは飼っていないよ」

「では、近所に猫を飼っている家は?」

「うーん…。家猫を飼っている家はあるだろうけど、外猫を飼っている家は知らないね。首輪もつけていないし、野良猫じゃないかな」

「…そうか」

「それか、捨て猫かもしれないね。まだ小さいのに、可哀相に」

冥加は店主と二言三言交わした後、いくつかパンを購入して店を出た。

かなでを懐に隠すように抱いて、冥加はどこぞに向かっているようだ。

「(冥加さん、どこに行くんだろ…。…あったかい)」

 

「あっ、兄様。おかえりなさい」

着いたのは冥加の自宅だった。
何度か来たことはあるが、猫になったせいで視界はまるで異なり、知らない場所に連れてこられた気分だった。

冥加はかなでをソファーに降ろした。

「………まあ!」

枝織の驚いた、そして嬉しそうな声が響く。

「どうされたのですか、この子猫ちゃん!なんて可愛らしい!」

枝織はさっそくかなでを抱き上げ、すりすりとほお擦りを始める。

冥加と違い、小さくて柔らかい手。
すべすべでとても心地いい。

「(わ、枝織ちゃん、おっぱい当たってる!…中学生なのに、私より大きい…)」

嫉妬を抱かれているとも知らず、枝織はとろけた顔でかなでにメロメロになっていた。

「…星奏学院の近くで拾った。雌だからスプレーの心配もない。…定期的に爪を切れば、特に問題もないだろう」

「!では兄様、この子を飼うことにされたのですか?!」

「…ああ」

「やった!私、嬉しいです!」

妹の喜ぶ姿を見て、冥加は呆れたように笑った後、自室に消えていった。

「お腹が空いているでしょう?ミルクしかないのだけれど、今持ってくるから待っていてね」

かなでをソファーに降ろし、ぱたぱたとキッチンに走っていく枝織。

「(…どうしよう)」

かなでは複雑な気持ちだった。
路頭に迷っていたところを偶然冥加に拾ってもらえたのは助かったが、
このまま猫の姿で冥加家で飼われることになるのだろうか。

枝織のことも好きだし、ずっと冥加の家で彼と一緒にいられることを考えたら、それは嬉しい。
しかし、猫のまま一生を終えることになったら…

「はい、どうぞ。少し温めてみたの、猫ちゃん用のミルクがなくてごめんね」

枝織は小皿に少し温めた牛乳を入れて、かなでをの前に置いた。
高級な食器だろうにいいのかな、とかなでは躊躇う。

しかし、枝織があまりにもわくわくした様子で見つめているので、かなではちょっとだけ牛乳を頂くことにした。

ひとたび口をつけると、空腹もあいまって舌は止まらなくなる。
飲み方は人間と違うのに、猫になると猫の飲み方ができるから不思議だ。

「ふふ、お腹が空いていたのね。でも、猫ちゃん用のご飯がなくて…」

むしろかなでは助かった、と思った。
猫になってしまったとはいえ、キャットフードを食べるのは抵抗がある。

「ツナ缶ならあるのだけど…」

「だめだ、枝織。人間の食事を食べさせては体に悪い」

冥加がリビングに戻ってきた。
制服から私服に着替えている。
私服姿の彼を見るのは初めてだった。

「これから俺が買ってくる」

「!」

いいえ、結構です!むしろツナ缶でいいです!
…と言いたいところだが、言葉が喋れない。

「いいえ、兄様。私が買ってまいります。兄様はお疲れでしょう、少し猫ちゃんと休まれて下さい」

歩きながら猫ちゃんの名前を考えたいの、と枝織は冥加を制止し、玄関に向かった。

「………」

かなでは牛乳を飲むのをやめて、隣に座ってきた冥加を見つめた。

「どうした、もういいのか?」

「…にゃん」

冥加は胸元にかなでを抱き上げ、愛しげに撫でる。
気持ちいい、と感じると、喉が勝手にゴロゴロ鳴った。

こんなに穏やかな冥加の姿を見るのは初めてで、人間の姿でないのをいいことに、かなでは言う。

「(冥加さん、大好き)」

「にゃ、にゃあん、ゴロゴロ」

それは本当に言いたい言葉にはならなかったが、きちんと伝えられたような錯覚に陥る。

すり、と冥加の胸元にぐりぐりと頭をこすりつけると、いい匂いがした。

「(冥加さん。冥加さん、大好きです)」

「…hübsch」

頭に柔らかいものが触れ、ちゅっ、と音がした。

「(………。キスされた?!)」

はっとして冥加の顔を見上げると、彼は愛しげにかなでを見つめて顎をくすぐってきた。

彼がなんと言ったのかはよく聞こえなかったが、なぜだか自分の言葉に応えてくれたような気がして嬉しかった。
何より、まさかキスをされるなんて。

…自分が猫でなかったら、一生されないであろう行為だ。

これが、人間のままのかなでだったら…
一生叶わないであろう夢。
なんだか、…とても虚しい。

でも、とかなでは思った。
好きだけれど怖い、冥加に対してそんな印象ばかりが強かったが、こうやって動物を慈しみ、優しい表情をみせることもあるのだ。
冥加の周囲に向ける優しさはわかりづらいが、それでも優しさに変わりはない。
冥加の新たな一面を知ることができたのは、よかったと。

「ただいま帰りました」

枝織が戻ってきたようだ。
早い。
駆け足で帰ってきたのか、少し息を切らしている。

「この時間だとコンビニエンスストアしか開いていなくて…」

「間に合わせなのだから充分だろう」

枝織からコンビニ袋を受け取ると、冥加は中身を確認する。
枝織は冥加の膝に乗っていたかなでを奪うように抱き上げ、待ってましたとばかりに撫でた。

「本当に可愛いわ。こんなに小さいのに人懐っこくて、無駄鳴きしないし…いい子ね」

「それで、名前は決まったのか?」

「それが…。たくさん候補がありすぎて、ひとつに決められないんです」

照れ笑いする枝織に、冥加はフッと笑った。

「名付けにはセンスが問われる。それほどまでに悩むなら、余程センスの良い名前をつけなくてはな」

「も…もう兄様、プレッシャーをかけないで下さい!」

冥加兄妹の会話を聞いて、かなでは少し笑った。
この光景を見る限り、普通の兄妹なのだが。

「ヘラクレスはやたらと気位の高い猫だったからな。あれより飼いやすいだろう」

「あれは兄様に似たんですわ。ペットは飼い主に似ると言いますもの」

やり返すように枝織は言う。
ヘラクレス…とは。
二人が以前に飼っていたペットだろうか?

枝織は抱き上げたかなでをじっと見つめて、こんなことを言い出した。

「…兄様。なんだかこの猫ちゃん、小日向さんに似ているような気がしません?」

「………何を言い出すかと思えば」

「(こんなところで私の名前を出したら怒られるよっ、枝織ちゃん…!)」

かなでは猫ながらヒヤヒヤしたが、冥加は少し不機嫌そうな表情を浮かべただけで否定はしない。

「…なぜそう思う?」

「え…えっと。なぜでしょう?でも、なぜかそう思ったんです。小さくて可愛らしいからかしら」

ありがとう枝織ちゃん、と思う傍ら、全力で否定にかかるであろう冥加を想像し、先駆けてションボリするかなでだったが―――

「…フッ」

冥加は否定などせず、伏せ目がちに微笑む。
予想していたこととあまりに違って、かなでは驚いてしまった。

「それで。名前は決まったのか?」

枝織は早くも餌の用意を始めている。
かなでは慌てた。
そうだ、猫の餌を食べるわけにはいかない!

菩提樹寮の猫に缶詰を与える時、ちょっとシーチキンぽい匂いがしておいしそうだな、と思ったことはあるが…
いや、無理だ。

かなでは慌てて冥加の膝の上からおりた。

「女の子だから、エリザベスかヴィクトリアがいいと思いますの

「…フン、ありきたりな名前だ」

「もう。それなら兄様はどんな名前を………あら?」

振り向くと、兄が抱いていたはずの子猫がいない。

「兄様、猫ちゃんは?」

「ああ、今…。………?」

かなではリビングを飛び出し、玄関に向かっていた。
向かったはいいが、…逃げようにもドアが開けられない。

「(ど、どうしよう…)」

その時。
ピンポーン、とインターフォンの音がした。

「はぁーい」

枝織が返事をする。
それから、玄関にいるかなでを見てホッとした表情を見せた。

「なんだ、ここにいたのね。ご飯の用意ができたわよ」

「ちーっす!冥加さん、宅配便でーす!」

「あ…。はい、今開けます」

しめた!
かなでは偶然の女神に感謝した。
これでドアが開いた隙に逃げよう!

枝織はなんのためらいもなくドアを開けた。
その隙に、荷物を抱えた宅配業者の横をすり抜け、かなでは走り出す。

「すんませーん、印鑑…」

「あっ!猫ちゃん!…兄様、大変!」

枝織の叫び声を聞いて、冥加も玄関に向かう。
宅配業者はかなでが出ていったことに気づかず、「?」という顔をしている。

「猫ちゃんが!外に、逃げていってしまいましたの!」

「なんだと?…馬鹿者!」

「ひえっ?!す、すいませ~ん!」

冥加は舌打ちすると、自分が怒られたわけでもないのに怯えている宅配業者を無視して、外へ飛び出した。

 

行くあてなどない。
しかし、あのまま冥加家で猫として飼われる人生(猫生?)を送るわけにはいかなかった。

背後から、どすどすと走っている音が聞こえてきて、冥加が追いかけてきたのだと悟った。

しかし、自分の足ではすぐに追いつかれてしまう。
どうにかして逃げないと、と考えていると、ちょうど角を曲がるとエレベーターホールにたどり着き、その中のひとつから人が降りてきた。
慌てて飛び込む。
ボタンは押せないが、とにかく逃げなければ、という一心で。

「っ…、」

冥加は子猫を追いかけて角を曲がった。
エレベーターホールは袋小路だ。
…が、子猫は見当たらない。
そこには、扉が閉まったまま止まっている不自然なエレベーターが一台。

エレベーターの中に逃げ込んだのか、と冥加は適当にボタンを押し、扉が開くのを待った。
そして、中を見て目を見開く。

「―――?!」

 

「っ………」

かなでは驚愕の表情で自分を見下ろす冥加を見つめていた。
見つかった…。
これで、かなでの人生(猫生)は冥加家に委ねられてしまった。
ずっとそばにいられるのは嬉しいけれど、人間として話をすることも、ヴァイオリンを弾くこともできない。
その覚悟は死への覚悟にも似ていて、そう簡単に受け入れられるものではなかった。
呆然と冥加を見つめることしか、できない。

しばらく、互いに見つめ合っていたが…
やがて、冥加がきり、と顔をしかめた。

「貴様………」

「え?」

「なぜ貴様がここにいる」

「え?………え?!」

それは、愛らしい子猫に向ける言葉ではなかった。
いつもの、人間の自分に向けられる言葉。
と、いうことは―――

かなではぱっぱっと自分の体を触った。
触れる!

「(人間に…、戻ってる…!)」

いつの間にか、かなでは人間に戻っていたのだった。
全てのことに安堵し、全身の力が抜けた。
と、気まずそうに冥加が視線を逸らした。

「…いつまで座っている。さっさと立て」

言われて、自分が体育座りの思い切り足を開いた状態で座っていることに気づいた。
もちろん、下はスカート。

「きゃあっ!わ、わっ」

体の力が抜けているからなのか、先程まで猫の体だったからか、
かなでは上手く立ち上がれなかった。
焦れば焦るほどじたばたしてしまう。

「…それほどまでに運動神経が鈍いとはな」

冥加が一点を見ないようにしてさりげなく手を差し出した。
かなでは少しドキドキしながら、遠慮なく手を借りる。

それでやっと立ち上がり、念入りにスカートを直した。

「…貴様がなぜここにいるのか、興味はないが。…猫が来なかったか」

「えっ?…あ、」

かなでが人間に戻ったことで、子猫はいなくなった。
一から説明しても、きっと信じてはもらえまい。しかし、いなくなった、なんて言ったら冥加も枝織も心配して、落ち込んでしまうに違いない。

かなではまだ混乱している頭で懸命に作り話を考えた。

「あ、あのっ!こ、子猫ですよね。その子なら、えっと、さっき飼い主らしき人が抱いて帰っていきました、けど!」

「飼い主…?」

「あ~、えっと!ここのマンションの人じゃなかったみたいですけど!」

「………。そうか」

冥加は、いつものように素っ気なく言ったが。
その横顔は、どこか寂しそうだった。

「…ここは天音のマンションだ。なぜ貴様が入り込んでいるのかは知らんが、さっさと帰れ」

「………!」

冥加はかなでに背を向け、そのまま部屋に帰ろうとした。
かなでは反射的に身を乗り出す。

きっと…
猫になったのは、学院の妖精が冥加に想いを伝える手助けをしてくれた結果だ。
散々な目に遭っただけで、このままいつものように終わらせていいのか?
それだけは、いやだ―――その気持ちが、かなでの声帯を震わせる。

「―――待って下さい!」

冥加はぴたりと立ち止まり、ゆっくりとかなでを振り向いた。
その表情は、不快そうに歪んでいる。

もともと憎まれているのだから、これ以上嫌われることなんて怖くない!
かなではぎゅっと拳を握り、下腹に力を込めて思い切り声を出す。

「冥加さんにっ…お話があって、ここまで来ました…っ」

「話…?貴様と話すことなどない」

「私にはあるんです!」

普段のかなでらしからぬ雰囲気と勢いに、冥加は少々怯んだようだった。
しかしその反論を聞き、冥加はかなでの申し出に納得したように向き直る。

「…この俺に盾突くとは、貴様にしてはいい度胸だ。いいだろう、貴様の話とやらを聞いてやる」

冥加は腕組みをして、まるで挑戦を受けるかのように不敵に笑った。
…かなでが話したいのは、そんな激しい内容ではないのだが…。

が、思いがけず掴んだチャンス。
かなでは勢いに乗って、強気に話を始めた。

「わ、私は、冥加さんにひどいことをしておいてっ、冥加さんのことを忘れてっ…こんな私に、こんなこと言う資格はないのかもしれないですけどっ…」

「………」

「私は…っ、冥加さんのことが好きですっ!冥加さんと、お…お付き合い、したいんですっ!」

「………」

かなでの話は、冥加にとって予想外のものだった。
話があるなどと、きっと過去の罪を悔い、ただひたすら自身の罪悪感を晴らすためだけに、許しを乞う言葉をつらつらと吐き出されるのだろうと考えていた。

それに対し、対応まで考えていて。
許すはずなどない、諦めろ―――
その二言しか与えるつもりはなかった。

しかし、かなでの「話」は、
「好きです、付き合って下さい」
という、愛の告白だった。

予期しないコマンドに、情けなくも思考がフリーズした。

冥加がなんの反応もみせないのをいいことに、かなではつらつらと独り言を言うように続ける。

「冥加さんは…私を嫌ってますけど…でも私は、冥加さんが好きで…どうしようもなく、大好きで…。だから、私は冥加さんの恋人になりたいんです…!」

できることなら、待ってくれと懇願したかった。
今のかなでは、処理速度の遅いパソコンでむやみにエンターを叩きまくるパソコン初心者さながらだ。

確か、子猫を飼うことになって。
その子猫が逃げ出して、追いかけて…
なぜかかなでがいて、子猫は飼い主に連れ帰られたと聞いて…

それが今、愛の告白を受けていて…

どうしてこうなった、と誰でもいいから責めたい気分だった。

「…ふ、フッ、くだらんな」

「くだら…ない?」

「好きだの嫌いだの付き合えだの、貴様と俺はそのような甘」

「私は、勇気を出して本当の気持ちを冥加さんに伝えているんです!それのどこがくだらないっていうんですか!真面目に聞いて下さい!それとも、冥加さんは真剣な人を目の前にして馬鹿にするような人なんですか!ちゃんと私の目を見て話をして下さい!」

「(うっ…)」

冥加は多分、人生で初めて「怯む」という状況を体験した。
自分の発言を阻まれたことだって初めての体験だ。

それに、これほどまで強気に冥加に向かってくる他人はいなかった。

…それが、あの「小日向かなで」だなんて。

七年来焦がれ続けた、あの弱々しい少女は、
七年の時を経て、こんなにも強く、美しく成長した。
そんなことは、全国大会で敗北した時に、思い知ったはずなのに。

「…聞き捨てならんな」

「っ…言い過ぎたなら謝ります。でも、真面目に」

「そこではない。…いつ、俺が貴様を嫌いだなどと言った?」

「―――…え?」

「勝手に俺の発言を捏造するな」

「えっ…、だって、」

冥加は驚くほど真っすぐにかなでを見つめていた。
その澄んだ眼差しが怖いくらいに。
いつもかなでを見る時の、嘲るような表情でも、不快な表情でもない。
ただ真っすぐに、真摯な顔つきで、かなでを見ていた。

「俺は、貴様を、嫌ってなど、いない」

幼子に言い聞かせるように、わざと言葉を区切って。
もしくは―――別の意図がある、と言い聞かせるように。

「じゃ…じゃあ」

「恋人…か。常々、貴様とはそのような甘ったるい関係ではないと言い聞かせてきたが。…貴様に俺の思考を理解しろなどとは酷な話だったな」

それはつまり、「バカ」ということだろうか。

「ならば、些か譲歩してやっても良い。貴様の言う、恋人という関係にしてやっても構わない」

「へ」

ふ、と笑った冥加の顔は。
なんの邪念もない、普通の男子高校生の―――所謂、照れ顔だった。

「え…えぇぇええええ?!」

「うるさい」

今度は、かなでが予期しないコマンドにエラーを出す番だった。
彼はとんでもないキーボードクラッシャーだ。
あまりのことに、瞬きも忘れてぷるぷると身もだえる。

「う、うそ…うそ」

「嘘ではない。…貴様は俺が嘘をつく不誠実な人間だと言いたいのか」

「ち…ちが、違います!違くて…私…その、信じられなくて…嬉しくて…」

ともすれば嬉しくて泣き出してしまいそうなかなでを、冥加は無意識に引き寄せていた。
そしてかなでの髪に、そっと唇を落とす。
それは、正真正銘の恋人同士になったことを誓う儀式のようなもの。

「!」

かなではばっと顔を上げ、冥加を見上げた。
歯の根が合わなくなるくらい感動にうち震えるかなでに、思わず呟く。

「…hübsch」

かなではまるで子猫のように愛らしいと、そう思った。

 

兄に「子猫が飼い主のもとへ戻った」と聞かされ、数日落ち込んだかなでだったが、
後日、偶然出くわしたかなでに嬉しい報告をされ、少し気分は浮上したようだった。

そのうちに、冥加や枝織に真実を話そうと、かなでは誓った。
実はあの子猫は私だったの…なんて話も、
今ならなぜか信じてもらえそうな気がしたから。

END