daydream |
帰宅途中の冥加は不自然なほど早足だった。 恋人の待つ、家へ――― 『お仕事…?今日は一日一緒にいられるって言ってたじゃない!』 『やかましい。俺の仕事は平日だろうと休日だろうと無関係だ』 『せっかく一日中一緒にいられるって思ってたのに!』 『気に食わないのならば帰れ』 冥加はいまだに、かなでが憎いのか愛しいのかわからない。 こんなわがままを言ってくる彼女を鬱陶しいと思いながらも、一緒にいたかったと駄々をこねる姿が可愛らしいとも思ってしまう。 でも、口から出るのは冷たい言葉。 ここできっとまたしょんぼりされて、前言撤回することになるのだろう…なんてところまで考えているくせに、どうしてこんな言葉が口から出るのかは自分でもわからなかった。 冥加は少し諦めがちに、少し期待して、かなでの反応を待った。 『わかった』 ―――かなでの口から出たのは予想だにしていなかった言葉。 かなではそう言い放ち、かばんを手にしてずんずんと玄関に歩いていってしまった。 『………』 予想外のかなでの態度に、冥加は一瞬思考が停止した。 が、すぐに彼女の後を追う。 『お…おい』 冥加の呼び掛けに振り返ることもなく、かなでは靴をはいている。 衝動的に、がしりとかなでの肩を掴んでしまった。 『痛い』 かなでは振り返り、冷めた瞳で冥加を見た。 『っ………悪かった』 小さな声で謝罪すると、かなでの顔がやや和らいだ。 が、彼女は厳しい口調で言った。 『帰れって言われたから帰るの』 『ぐっ…。か、帰れとは言ったが。お前が帰りたくないと言うなら強制はしない』 苦しい言い訳ということは、本人が一番よくわかっていた。 『………』 かなではじっと冥加を見つめている。 怒った猫が相手を威嚇するような眼差しに、冥加はたじろぐ。 かなでは、何も言わずにすたすたとリビングに戻っていった。 『………』 冥加はため息をついて額を拭った。 それは呆れのため息か、安堵のため息か…。 冥加もまたリビングへ行き、かなでに声をかけたかったのだが… そろそろ仕事に行かなければいけない時間。 追い立てられているようで苛々した。 結局、声をかけたくともなんと言ったらいいのかもわからない。 仕事から帰ったら、かなでも自分も少しは頭が冷えているかもしれない。 そう考えて、冥加はそのまま玄関を出た。 「………」 そして、現在に至る。 駅前のケーキ屋の看板が視界に入った。 謝罪の言葉など出るはずもないし、どうやって怒った彼女に接したらいいのかはわからない。 でもとにかく、一刻も早く帰って彼女に会いたい。 …怒らせてしまった詫びに、ケーキでも買っていったらいいかもしれない。 早足は、途端に歩みを躊躇う。 彼女がおいしいものに釣られやすいことは、冥加もよく知っている。 土産を買っていけば、彼女の機嫌も少しは…。 冥加はケーキ屋に寄った。 自宅につき、玄関を抜け、リビングにたどり着くと、かなではソファーの上で寝ていた。 枝織は友人と出かけていて、夕方過ぎにならないと帰ってこない。 本来ならば一日かかっていたであろう仕事を、3、4時間で切り上げたのだ。 彼女と二人きりで過ごす時間などまだまだある。 冥加は土産をテーブルに置くと、寝ているかなでに近づき、その寝顔をじっと見つめた。 「………」 彼女に伝えることはできない反省の念と、謝罪の言葉。 汲み取ってくれ、と心の中で呟きながら、冥加はかなでの頬にキスをした。 「………」 わずかな動きでかなでが目を覚ました。 彼女の可愛らしい瞳を見て安心した冥加は、このまま彼女を抱いてしまおう、と思った。 そうすれば、きっと仲直りできるはずだ、と。 「ん…」 目を擦っているかなでの上に覆いかぶさり、彼女の両手首を掴む。 すると、かなではまるで化け物でも見たように顔を歪ませ、思い切り叫んだ。 「きゃああああ!いやあああああ!」 キ―――――ン… 耳をつんだくその叫び声にも驚いたが、 拒まれたショックで冥加の動作は停止した。 きゃあ… いや… 冥加の言葉や態度に文句を言っても、冥加を拒むことは一度たりともなかったかなで。 それが。 ………それなのに! 冥加はショックで目を見開いたまま何もできなかった。 そんなに怒っていたのか。 どうしたらいいのだ。 これはやはり、言葉に出して心からきちんと謝った方がいいのかもしれない。 が、冥加は謝り方を知らなかった。 心から反省し、相手に素直に謝罪の言葉を述べたことは、多分、今まで生きてきて一度もない。 「か…、かなで…」 冥加が動きを停止している間に、かなでは彼の体の下からずりずりと這い出し、部屋の隅にうずくまっていた。 警戒心剥き出しの動物そのもの。 今にも、フーッ!と吹かれそうだ。 「いや!近寄らないで!」 「(ガーン!)」 かなでに手を伸ばそうとすると、キッと睨まれてそう言われた。 冥加はショックのあまり、初めて人前で泣きそうになった。 …かなでの声は、やけに甲高い。 「おじさん、だれっ!」 「(お…、おじさん…だと…)」 かなでに「玲士くんて老けてるよね(笑)」と称されることは多々あれど、「おじさん」などと言われたことは初めてだ。 冥加はショックのあまり、今度こそ本当に泣きそうになった。 「あ!わかった!今話題の、ポリゴンでしょ!きょーやが言ってた!変態に気をつけろって!」 「(ポ…ポリゴン?変態…?!)」 次々と衝撃的な言葉が飛び出す中、冥加はそろそろ何かがおかしいと気づき始めていた。 そんなこと、あるわけない。 いや、でも。 二人の周りで不思議なことが起こるのは、これが初めてではないのだ。 冥加は意を決して、聞いた。 「………お前の名は」 「………。小日向、かなで」 かなでは不審そうな顔で答えた。 「………年齢は」 「……。10歳」 「―――――!」 かなでの表情がやけに子供っぽいのも。 かなでの声がやけに甲高いのも。 冥加を変に拒むのも。 信じられない………しかし これは―――――。 「………」 とりあえずかなでを宥めて、ケーキを与えると彼女はすぐに懐いた。 「きょーやはね、知らないやつにものもらったらだめだって言うんだけどね、ケーキくれる人に悪い人はいないんだよー?」 「………」 冥加はソファーに座り、頭を抱えていた。 …なぜ、こんなことに? 信じられないが、 かなでの中身は10歳に戻ってしまったらしい。 もちろん、外見は高校2年生の彼女のまま。 いたずら好きの彼女ではあるが、演技とは思えなかった。 いや、思いたくなかったのかもしれない。 自分を拒むかなでなど、高校2年生のかなでであるはずがない、と。 「ね、おじさんはだーれー?ポリゴンなのー?」 「………」 かなではすっかり冥加に対する警戒心を解き、ケーキを頬張りながらにこにこと笑っている。 冥加は顔を覆っていた手を離し、ゆっくりとかなでを見た。 「ひっ………」 びく、とかなでの体が震え、顔が青ざめた。 しまった、怖がらせてしまった。 咄嗟に冥加はぎこちなく表情を和らげはじめる。 笑顔、笑顔だ。 これ以上怖がらせて、家を飛び出して警察にでも駆け込まれたらややこしいことになってしまう。 「………」 「(クッ…、顔の、筋肉…がっ…)」 愛想笑いなどしたことがない冥加は、表情の作り方がわからない。 「………ぶっ」 「!」 「あははははははっ!おじさん、変な顔ーっ!」 「な…なんだと…」 かなでは爆笑し始めた。 無理矢理表情を作る冥加は、確かに滑稽だっただろう。 しかし、そのおかげでかなでの警戒心は解けたらしい。 にこにこ笑って冥加を見ている。 …冥加にとって彼女の姿は、高校2年生そのまま。 その姿でにこにこ無邪気に笑っているのだから、普段と同様たまらなく可愛い。 普段は、可愛いと思ったら、すぐに抱き寄せるなり、キスするなり、そのまま食べてしまうなり、自分のしたいようにするのだが… 今、彼女の中身は10歳。 普段通り振る舞うわけにはいかない。 そんなことをしたら、またポリゴンだのロリコンだの言われて、今度こそ逃げ出されてしまう。 「(くッ…)」 冥加は自分の中の欲望と葛藤していた。 「………。きょーやはー?りつくんはー?ここはおじさんち?知らない親せき?」 かなでは自分の置かれた状況がわかっていないようだ。 まあ、それは当たり前なのだが… そんなことより、冥加はさっきからずっと気になっていることがあった。 「………かなで」 「!」 いつも通り名を呼ぶと、かなではまたもやびくり!と跳ね上がった。 冥加は頭を抱えて呼び直す。 「くっ…。その…。あの…。か…かなで…、かなで…ちゃん…」 「………うん!」 まさか女性を「ちゃん」づけで呼ぶ日がくるとは。 今日は「生まれて初めて」の連続だ。 「………。その。『きょーや』とは、一体誰のことだ…」 そう。 かなではさっきから、「きょーやが」「きょーやは」と繰り返している。 全国大会のアンサンブルメンバーしかり、学院では男子に囲まれることが多いかなで。それは冥加も知っている。 かなでがどんな男子と交流しているのかは知らないし聞いたこともないが、実は独占欲のかたまりである冥加。 名も知らぬ男が自分の彼女の周りをうろつくのは気に食わない。 かなでも実はそれに気づいているらしく、冥加の前で男の名を出すことは一切なかった。 ………が。 今のかなでの中身は10歳。 そんな気遣いはあるはずもない。 「きょーや?きょーやはねえ、幼なじみだよ!如月、きょーや」 「如月…」 その名には聞き覚えがある。 一昨年前の全国学生音楽コンクールのソロ部門で優勝し、今回の全国大会で優勝した星奏学院オーケストラ部の部長。 だが、彼は「如月律」という名前だった気がするが。 「如月…、如月律ではないのか」 「りつくん?りつくんはりつくんだよ。きょーやは、りつくんの弟!」 「弟?………!」 あ い つ か シュトゥルムに勝手に触れ、いつもかなでの周りをうろちょろしている山猿。 気に入らない男だとは思っていたが、名前を把握していなかった。 そうだ… 如月律も、如月響也もかなでの幼なじみらしい。 10歳のかなでにとっては、自分より近しい男。 冥加の機嫌は一気に悪くなった。 「………」 「おじさん?どうしたのー?」 「………。その…。響也とやらのことを、おま…かなでちゃんは、好きなのか…?」 「友達としては好きだよ!…だけど、かなでには、好きな人がちゃんといるもん!」 「好きな…人…?!」 …娘を持った父親の心情とはこういったものなのだろうか。 響也のことは友達として好き、というのもなんだかムカついたが、そんなことは問題にならないくらい冥加は焦っていた。 高校2年生ともなれば、恋の1つや2つ、経験していてもおかしくない。 だが、それは過去のことだからいいのであって。 今、目の前にいる10歳のかなでは、現在進行形で好きな人がいる状態。 大変複雑ではあるが、それが自分でないことだけは確かだ。 「そ…それは…」 「うふふ。おじさんには、こっそり教えてあげようか?かなでね、学校の友達にも教えてないんだよ?」 もじもじしながらかなでは言った。 …聞きたいような、聞きたくないような…。 「…でもね、言っても絶対誰も知らないの。りつくんやきょーやは知ってるかもしれないけど…」 途端にしゅんとして俯くかなで。 …誰も知らない? 小学生くらいの子供に好きな人がいるとしたら、同じ学校の子供ではないのか。 「き…聞かせてもらおうか」 「………。でも、その人はね。かなでのこと、嫌いなの。かなでがね、いやなことしちゃったから」 「………?」 「でも、かなではずっと好きなの。あの子はかなでが嫌いでも、かなではずっと…」 「誰だ」 聞くだけなら健気なかなでが可愛らしいが。 かなでにそこまで想われている男が存在しているなんて、許せない。 しかも、そいつはかなでを嫌っているらしい。 冥加なんて、かなでに嫌われたって彼女を好きでい続ける自信があるのに。 「………あのね。かなで、ちょっと前にヴァイオリンのコンクールに出たの。その時…」 …だから学校の友達は誰も知らないということなのか。 冥加は心の準備をしながら次の言葉を待った。 「かなでね。演奏の直前にヴァイオリンの弦を切っちゃって…どうしたらいいのかわからなくて、泣いてたの。そしたら、同じコンクールに出る男子が、かなでの弦を張り直してくれて…」 なるほど、そいつがかなでの好きな人というわけか。 ………。……………ん? 「ちょっと言葉づかいが怖かったんだけどね、とっても優しい男子だったの。かなでにとっては王子さまみたいだった。だけどね…」 「…勝ちを譲ると発言し、憎まれることになった…」 「………?!なんで知ってるの?!」 かなでは驚いて冥加を見上げた。 冥加は目をそらし、分が悪そうな顔で…やや赤くなっていた。 10歳のかなでの、好きな人。 それは――― 「………。かなでね。あの時は、なんであんなに怒らせちゃったのか、ぜんぜんわからなかった。かなでは、優しくしてくれたお礼がしたかっただけだったから。お礼をしたつもりだったから。かなでは、コンクールの勝ち負けなんてどうでもよかったの。でも、その子は…」 「………」 「あとでよく考えたらね、その子はちゃんとした勝負をしたかったんだ、ってわかったの。かなでは、ショックで泣いちゃって、そのあとの演奏に出られなくて…結局、負けちゃったんだけど…」 …そういえば。 あの日のことを、彼女とちゃんと話したこともなければ、彼女の想いをちゃんと聞いたこともなかった。 きっとこんな状況でなければ、互いに感情的になってしまうこともわかっていたから。 冥加自身もまた、避け続けていた。 「その子は、かなでを一生憎み続けるって言ってた。…でも、そんなことを言われても、かなではやっぱりその子のことを忘れられない…」 「忘れなくていい」 「え…?」 冥加は体を屈ませ、かなでと同じ目線で語りかけた。 「忘れるな。相手がどんなに変貌していたとしても、どんなに時間がたっても、そいつのことを忘れるな」 「う、うん…?そしたら、その子はかなでのこと、許してくれるかな?」 「いいや」 「うっ…」 間髪入れずに否定されてかなではうっ、と身を縮めた。 「その男は、一生かなでちゃんを憎み続け、そして想い続けるだろう。だから、かなでちゃんもずっとその男を想い続けろ。それならば、あるいは―――」 「………そしたら、いつかかなでは許してもらえるのかな?かなでのこと、好きになってもらえる?」 冥加は答えなかった。 ただ、代わりに優しい微笑みを返す。 「もう一度、会いたいな…。………」 そう言って、かなでは冥加の顔をじっと見つめた。 「おじさん…。………なんとなく、あの子に似てる…かも…?」 「別人だ」 ふ、と冥加は意地の悪い笑みを見せた。 かなではふるふると首を振り、今一度冥加を見つめる。 「そ、そうだよね。…なんでかなで、似てるなんて思ったんだろう…」 落胆している顔がまた可愛らしい。 と、冥加はここにきて一番重要なことを思い出した。 原因はわからないが、かなでの中身は10歳に戻ってしまっている。 元に戻す方法はわからない。 では、かなではずっとこのままなのだろうか。 7年――― 7年、憎み、想い続けた彼女。 そして、7年待ったのち、ようやく再び巡り会えた彼女。 高校2年生の彼女に再び会うには、更に7年の月日を待たなければならないのだろうか。 その時、冥加は――― 「…おじさん?どうしたの?」 辛そうな顔で考え込む冥加を心配して、かなでが顔を覗き込んできた。 「おじさん、どうしたの?お腹痛いの?」 「いや…。………」 「…おじさん!ヴァイオリン、ある?」 「ヴァイオリン…?」 かなでは笑顔で頷いた。 「おじさんの元気が出るように、かなでがヴァイオリン弾いてあげる!かなでがヴァイオリン弾くとね、みんな元気になるって言ってくれるんだよ!」 「………そうか。では、頼むとしようか」 冥加は、かなでのヴァイオリンを指さした。 しかし、かなでは首を振る。 「かなでは、まだ大きいヴァイオリン弾けないの」 「いや…。今のお前ならば弾けるはずだ」 言われて、かなではしぶしぶ頷いた。 彼女の中身は10歳。 自分のヴァイオリンのことさえ、わからないのだ――― 冥加がヴァイオリンケースを開け準備してやろうとすると、かなでは「ううん」と言って自分で手際よく準備を始める。 「じゃあ…、弾くね」 冥加が頷くと、ヴァイオリンは美しい調べを奏ではじめた。 ♪~♪♪♪♪♪♪♪~♪~♪~… 「(これは…!)」 7年前、冥加の演奏を打ち負かしたあの曲。 聴衆の心をとらえて離さなかったあの曲。 7年前の、愛のあいさつ――― まさか、7年の時を経て聞くことができるとは思っていなかった。 もちろん、高校2年生のかなでにもこの曲を弾くことはできる。 それに、高校2年生のかなでが演奏する「愛のあいさつ」より、どこもかしこも稚拙で。 それなのに、この「愛のあいさつ」は、心が震えるほど美しいと思える。 「おじさん、元気出た?」 演奏を終え、かなではにっこりと冥加に笑いかけた。 冥加もまた笑って、頷く。 「よかった」 彼女の笑顔と声が、どんどん遠くなってゆく。 目の前が真っ白になっていく。 一体なんなんだ、と考えているうちに、冥加の意識は遠のいていった。 「………くん!玲士くん!」 次に見えたのは、泣きじゃくるかなでの顔。 一体どうした、と冥加は飛び起きた。 「どうしたッ?!かなでちゃんッ?!」 「かなで…ちゃん…?」 かなでは泣くことも忘れ、目をまん丸くして驚いている。 冥加ははっとした。 まさか… 今までのことは、全部夢だったのか? 思わず口をつぐむ。 だが、かなでは冥加の発言をからかうこともなく、泣きながら抱きついてきた。 「玲士くん、よかった…!帰ってくるなり、いきなり倒れちゃうんだもん…!」 よく見たらここは玄関先。 傍らには土産のケーキの箱が横倒しになっている。 …かなでの話ではこうだ。 冥加が玄関に入ってきたことはわかっていたのに、意地を張って出迎えなかった。 しかし、いつまでたっても物音ひとつしないので、様子を見にきたところ… 冥加が玄関で倒れていたとのこと。 かなではどうしたらいいかわからず、ただおろおろしながら冥加に縋り付いていたそうだ。 「…普通、人が倒れたら救急車の一台でも呼ぶものだろう」 「えっ?!…あっ、そっか…!」 かなでは混乱して、そんなことも思い付かなかったようだ。 …だが、そのおかげでおおごとにならずには済んだ。 「玲士くん?…大丈夫なの?なんなら、今からでも救急車を…」 「大丈夫だ」 冥加はゆっくりと起き上がり、ケーキの箱を残念そうに見つめた。 「………。お前への、詫びの品が…。約束を違えたのは俺だからな」 その言葉に、かなではふるふると首を振った。 「そんなの…いいよ。そんなことより、私、玲士くんとあんな別れ方して…、玲士くんに謝れないまま、一生話せないようなことになったら、って考えたら…」 かなでの瞳にじわじわと涙があふれる。 「ごめんね…、玲士くん…。私、わかってたのに…お仕事で仕方なく、ってこと。なのに、たまには反発したいなんて考えちゃって…わざとあんな態度を…」 それを聞いて、冥加は安心していた。 かなでは別に本気で怒ったわけでも、冥加を嫌いになったわけでもなかったのだ。 ただの、可愛らしい反発。 「だから…、すごく、すっごく後悔した!こんなことになるなら、笑顔で送り出してればよかったのに、って…!」 冥加は伏せ目がちに、ふ、と笑った。 「俺が貴様を置いて逝くわけがあるまい」 「うん…!本当に、よかった…!」 本気で心配していたのだろう。 かなでは安心して、また泣きはじめる。 そんな姿が愛らしくてたまらなくなり、冥加は彼女を抱き寄せた。 そのまま唇を重ねようとしたが――― 一瞬、躊躇う。 「………?」 「お前は…、確かに高校2年の小日向かなで、だな?」 「えっ?う…うん…?」 なんでそんなこと聞くの?というように首を傾げるかなで。 「………ならば、いい」 「玲士くん、なんでそんなこと…?まさか、やっぱりどこか」 「黙れ」 かなでの言葉を遮って、口づけた。 「ん…」 かなでは拒まない。 かなでに拒まれることがあんなにも恐ろしいことだったなんて、と冥加は自嘲した。 かなでにキスをすることが、こんなにも勇気がいることだったなんて。 心配から一転、情熱的なキスを贈られたかなでは、唇を離した後も顔を赤らめて冥加を見つめていた。 「………俺は一生、お前を憎み続ける」 「………」 「もし、俺に許しを請うというのなら…、お前は俺を一生想い続けろ」 10歳のかなでにも語った言葉。 かなでは、そんな物騒な言葉を聞いても、顔色ひとつ変えなかった。 「………言われなくても」 その後は、 箱の中でぐしゃぐしゃになったケーキを食べながら仲直りをした二人だった。 END |