The sealed past

「小日向かなでさん…だよね?」

星奏学院の正門前。
下校しようとしていたかなでは、一人の青年に声をかけられて立ち止まった。

30歳前後の青年だ。
学院の関係者か何かだろうか。

「あっ…はい」

「ごめんね、突然声をかけたりして。おれは王崎信武。この学校のOBだよ」

青年は人のいい笑顔で言った。
王崎信武―――

ああっ?!と、かなでは声を上げた。

「王崎さん?!ヴァイオリニストの、王崎信武さんですか?!」

「うん、そうだよ。知っていてくれたのかい、嬉しいよ」

「知ってるもなにも!この学院で、王崎さんのこと知らない人なんていませんよ!ううん、この街でも!」

世界的に有名なヴァイオリニストの王崎。
CDも何枚も出していて、世界中でコンサートを行っている。
正真正銘の有名人だ。

「はは、大袈裟だよ。君は、夏の大会でヴァイオリンを弾いていたよね。全国優勝、おめでとう」

「あ、あああありがとうございます!光栄です!」

有名人相手にすっかり舞い上がってしまったかなで。
しばらく学院のことなどの雑談をした後、王崎は切り出した。

「きみは、天音学園の生徒と仲がよかったりするのかな。決勝戦では、ライバルだったけど…」

「あっ…えっと…」

かなでは天音学園の生徒と仲がいいどころか、冥加と交際している。
まぁ、「付き合おう」という話などしたことはないのだが、お互い恋人同士だと認識しているだろう。
初対面の王崎に、冥加と付き合っている…と言うのはなんだか恥ずかしい気がした。

「えっと、玲士く…冥加くんとは、特に仲良くさせてもらっています」

「冥加くんかい?…それはよかった。実は、彼について少し聞きたいことがあったんだ」

「冥加くんについて…?」

天音は、全国大会で準優勝だったといえど、冥加は優秀なヴァイオリニストだ。彼のような有名人の目に止まってもおかしくはないはず。

「はい、冥加くんのことならだいたいわかりますよ。なんでしょうか?」

「…ちょっと、言いにくいんだけどね。彼、事故でご両親を亡くされているでしょう。実はあの事故の後、おれは彼に会っているんだよ」

「えっ………?!」

それは初耳だ。

「彼はまだ小学生だったし、それから会っていなかったからね。おれのことは覚えていないかもしれないけれど…。ずっと心配していたんだよ」

 

 

 

7年前の、ある冬の日のこと。

王崎は、恋人と共に、北海道のあるペンションに滞在していた。

「本当にいいんですか?あんないいお話、断っちゃって…」

「…うん。おれには、まだ無理だと思うしね。それに、ソリストとして活動したいという気持ちの方が強いから」

彼が北海道にいた理由。
それは、とあるロシア人の指揮者に呼び出され、話をするためだった。
その頃、まだ下積みを行っていた王崎は現在ほど忙しくなく、恋人と旅行をかねて…ということで、一緒に北海道を訪れていたのだった。

ロシア人の指揮者―――アレクセイ・ジューコフ氏は、高名な指揮者だ。彼の率いる楽団も、全世界から厳選された演奏者のみで構成されていることで有名。
今回、王崎は彼の目に止まり、「私の楽団に入ってくれませんか」という話をされたのだ。
それが、2日前のできごと。

だが、王崎は断ってしまった。
理由は、さきほど彼女に話した通り。

「ヴァイオリンは、アジア系の人で構成したいとお話されていたからね。たまたまおれに話がきただけだよ。月森くんはソリストとしての意向を崩さないらしいし…。衛藤くんはまだ高校生だからね」

「はあ~。でもすごいなぁ、あんな有名な指揮者から直々にオファーがあるなんて」

恋人である日野香穂子も、一応ヴァイオリニストである。
なんとなくふてくされている香穂子に、王崎は笑顔で言った。

「もう断ってしまったものは仕方ないよ。それより、おれは冬の北海道をきみと満喫したいな」

「………。はい!私も♪」

暖かい室内で談笑していた二人だったが、なにやら部屋の外が騒がしいことに気づいた。

「…なんだろう。なんだか、外が騒がしいね」

「何かあったんですかね?様子を見に行きましょう」

ラウンジに下りると、ペンションの宿泊客や管理人が慌ただしく駆け回っていた。

「警察は?!救急車はまだか!」

「ものすごい吹雪で、到着が遅れるそうです!」

「…警察?救急車?」

物騒な単語が飛び交っている。
香穂子は不安そうに王崎を見遣った。
王崎は頷いて、近くにいた宿泊客に事情を聞いた。

「何があったんですか?」

「いや、どうもね、近くの道路で事故があったらしくて…。死亡事故だったらしいんだけど」

「死亡事故…!」

このペンションで働いている従業員が、偶然通り掛かって事故現場を発見したらしい。

「それで、運よく助かった子供二人を一時的に保護しているらしいんだ」

「じゃあ、事故に遭ったのは家族ということですか?」

「ああ。両親は亡くなっていたそうだ。本当ならすぐ警察が保護するんだろうが、この吹雪で警察も救急車も到着が遅れるらしくてね」

なるべく現場をいじらないよう、生き残った子供だけ保護しているとのこと。

「しかし、発見がこれ以上遅れなくて本当によかったよ。生き残ってもこの寒さだ、朝には凍死してしまう」

「そうですよね…。子供たちは、どこに?」

「あっちだよ。事故のショックで何も喋れないようだ。食べ物も口にしないしね」

王崎と香穂子は悲痛に顔を歪めた。
そんなことがあったなんて…。

二人は子供たちの様子を見にいくことにした。

 

「……………」

子供たちは、厚い毛布をかけられ、暖炉の前に座っていた。
小学生高学年くらいの男の子と、小学生低学年くらいの女の子。
女の子は寒さのせいか、事故の恐怖のせいか、眠ってしまっている。

王崎は少年のそばにしゃがみこんで、話しかけた。

「…大丈夫かい」

「………」

少年はうつろな瞳でどこぞを見つめている。
王崎の声は耳に入っていないようだった。
事故で両親を失った直後なのだ、無理もない。

なんと声をかけたらいいのか、王崎ですらわからなかった。

少年はしきりに手をさすっている。

「寒いのかい?」

「………。俺の指は、ちゃんとあるのか?」

「えっ…?」

少年がぽつりと言った。
もしかしたら、事故のショックでケガをしたと思っているのだろうか。
手当てをされていないことからしても、少年や少女に外傷はない。
王崎は、安心させるように言った。

「きみの手は、ちゃんとあるよ。きみは無事だ、安心して」

「………手の感覚が、ないんだ」

少年は遠くを見つめたまま呟く。
香穂子は少年を覗き込むようにして言った。

「寒さで手がかじかんじゃったんだよ。ちょっと、触らせてね」

香穂子は少年の手を取り、彼の手をマッサージした。
てのひらや甲を素早く撫で、指を回す。

「手、開いたり閉じたりしてみて」

「………」

少年は言われるままゆっくりと手を動かした。

「どう?感覚は戻ってきた?」

少年は頷く。

「香穂ちゃん、手慣れているね」

「はい、私も冬にヴァイオリン弾く時は手がかじかんじゃって…。こうやってマッサージしてから弾くようにしているんです」

「ヴァイオリン………」

少年はぽつりと呟くと、はっとしたように立ち上がった。

「ヴァイオリン…、俺の、ヴァイオリン!」

「っ?!」

少年は気でも違ったかのように部屋の中を駆け回り始めた。
しきりに「俺のヴァイオリン!」と叫びながら。

「おい、君たち一体何をしたんだ!事故に遭ったばかりなんだから、刺激しちゃだめだろう!」

「す、すみません。おれたち、変なことを言ったつもりは…」

ペンションの宿泊客は、王崎たちが何かしたのではないかと訝しげな顔をしている。
二人が話した直後のことだ、無理もない。

と、少年がペンションの宿泊客の腕を掴んで言った。

「………俺のヴァイオリンはどこだ」

その目は、怒りと憎しみに燃え盛っていた。
子供の目じゃない。
掴んだ腕に、ぎりぎりと力をこめる。

「な、なんだ、どうしたっていうんだ」

「俺の…ヴァイオリンはっ…」

「ヴァイオリン…?荷物は現場に置いたままだ。警察が来るまで動かせないからね」

見かねた管理人が声をかける。

「っ………」

少年はペンションのエントランスに駆け出した。

「お、おい!どこへ行くんだ!」

「…現場に行く気だ。おれ、追いかけてきます!」

王崎は防寒着を羽織り、子供用の防寒着を持って少年を追いかけた。

「王崎先輩!」

「香穂ちゃんはここで待っていて!大丈夫、ちゃんと連れ戻すから!」

 

案の定エントランスのドアは開いていて、激しい吹雪が吹き込んでいた。
外に出ると、視界もままならないくらいの激しい吹雪。

その先に、少年の姿をとらえる。

「待ちなさい!」

少年は走っているが、そこは子供の足。
王崎はすぐに追いついて少年を抱き留めた。

「無茶だ!やめなさい!」

「うるさい、離せ!離せええええっ!」

少年はすごい力で暴れる。

「ヴァイオリンが!俺のヴァイオリンがああ!」

「とにかくこれを着て、手袋をして!」

「離せえええ!俺のヴァイオリンがあっ!」

バチン!
王崎は暴れる少年の頬を叩いた。
少年は一瞬怯み、憎々しげに王崎を見上げる。

「きみはヴァイオリニストだろう。こんな寒い中、手袋もせずに外にいたら、凍傷にかかって、手を失うことになる!ヴァイオリンも一生弾けなくなる!ヴァイオリンが大事なら、早くこれを着て手袋をしなさい!」

「………」

少年はおとなしく防寒着を受け取り、手袋をはめた。

「…現場はここから近いのかい。道はわかる?」

「………そう遠くはない。一本道だから」

「そう。それじゃあ、おれについてきて。一緒にヴァイオリンを取り戻しにいこう」

この吹雪の中、近い距離とはいえ、子供を連れて歩くのは懸命な判断とはいえなかった。
しかし、この子は錯乱するほどヴァイオリンが大事だという。
子供とはいえ、同じヴァイオリニストだ。このままこの子を連れ戻すことはできなかった。

王崎は慎重に道を進み、やがて事故現場へと到着した。

痛々しい事故の傷痕が、生々しく残っている。

「…ヴァイオリンは、どこに置いていたの?」

「…トランクの中」

車に近寄ろうとする子供を制止して、王崎は車の後ろに回った。

「きみは近づいちゃだめだ。見てもだめだ。…後ろを向いていて」

運転席と助手席では、彼の両親の亡きがらが割れた窓から吹き込む吹雪にさらされていた。

「(…子供さんは無事です。安心して下さい)」

少しだけ目を閉じて、冥福の言葉を唱える。
トランクは、事故の衝撃で少しだけ開いていた。

「(ヴァイオリンケースが…2つ…)」

一つは、衝撃で蓋が開き、中のヴァイオリンもめちゃくちゃに壊れてしまっていた。
もう一つは、蓋も開いていないし、無事のようだ。

とりあえず、王崎は蓋の開いてしまったヴァイオリンを丁寧にしまい、二つのヴァイオリンケースを抱えて少年のもとへ向かった。

「ヴァイオリンは、この二台でいいのかな」

少年は頷き、壊れているヴァイオリンを手に取ろうとした。

「だめだよ。確認するのはペンションに戻ってからだ、いいね」

少年は腑に落ちない様子だったが、仕方なさそうに歩きだした。

 

「王崎先輩!」

ペンションに戻るなり、香穂子が抱き着いてきた。
この吹雪の中出ていったものだから、心配していたのだろう。

「大丈夫だよ、香穂ちゃん。この子も無事だから」

「よかった…」

「おいおい、あんた何してるんだ、事故現場から荷物持ってきて!」

他の宿泊客たちが呆れた顔で王崎を見る。

「警察にどやされるぞ」

「現場には手をつけるなと言われているのに…」

「最近の若者は常識がなくて困る」

口々に文句を言われる。
が、彼らの言い分は正しい。
王崎は、警察の指示を無視してしまったのだから。

「申し訳ありませんでした。吹雪の中に楽器を放置するのは忍びなくて…」

「この人は俺のヴァイオリンを取り戻しに行ってくれただけだ!侮辱は許さない!」

子供とは思えない気迫で宿泊客たちをキッと睨みつけ、少年は言った。
宿泊客たちも面食らって、文句を言いながら散っていく。

「…すごいねぇ、君」

香穂子は苦笑いしながら少年を見た。

「じゃあ、確認してくれるかな」

王崎は少年の前に二台のヴァイオリンケースを置いた。

「…一台は、衝撃で壊れてしまったみたいなんだ。一応持ってきたんだけど…」

「…どっちが」

「この、エンジ色のケースの方だよ」

少年は落ち込んだ様子で、エンジ色のヴァイオリンケースを開けた。

「………ネーベル」

壊れたヴァイオリンを目の当たりにして、少年は悲痛に顔を歪めた。
香穂子もめちゃくちゃに壊れたヴァイオリンを目にして、言葉を失っている。

ヴァイオリンが壊れていることを告げずに、「一台しか残っていなかった」と嘘をつくこともできただろう。
わざわざ子供にショックを与えなくても。

しかし、この子はそれで納得するだろうか?
いや、しないと思った。

愛用する楽器がこのような姿になってしまうのは演奏者にとってとても辛いことだが―――事実は変えられない。

「………。こっちは?」

「…それは、シュトゥルム。父様のヴァイオリンだ」

「そうなんだ。こっちも確認してみよう」

少年は黙って、もう一方のヴァイオリンケースを開けた。

「…こっちのヴァイオリンは無事みたいだ。傷ひとつないよ」

「………」

深い色味を持つ、美しいヴァイオリン。
大切に扱われていたことがわかる。

「…きれいなヴァイオリンだね。すっごく高そう。いい音が出るんだろうね」

香穂子は少年を慰めるように、努めて明るく言った。

「きみの…ネーベルも、時間はかかるかもしれないけれど修理はできるよ。おれもヴァイオリンを弾くんだ。ヴァイオリン職人にも、何人か知り合いがいる。腕のいい人がね」

「…でも、もう前と同じ音は出せない」

「…そうだね。前と同じ音は出せないかもしれない。けれど…」

「ねえ、こっちのヴァイオリンは残念だけど、これからはお父さんのヴァイオリンを使わせてもらったら?」

香穂子が提案する。

「俺が…、シュトゥルムを…?」

「ああ、それはいいね。せっかくお父さんが遺してくれたんだ、きみが使ってあげるのもいいんじゃないかな」

「………。あなたは、ヴァイオリンが弾けるのか」

「おれ?うん、弾けるよ」

「弾けるなんてもんじゃないよ!国際コンクールで優勝して、CDだって出してるんだから!」

香穂子は自分のことのように興奮気味に語った。
少年の目が、子供らしく輝く。

「…聞かせてほしい」

「もちろん、いいよ。…けれど、今日は夜も遅いし、聞かせられるのは明日以降かな。聞かせるだけでなく、きみも一緒に弾こうよ。その、シュトゥルムで」

少年は頷いた。

 

数時間後、警察と救急隊が到着した。
少年と少女に外傷はなかったが、念のため病院に収容されることとなり―――

王崎と香穂子は、翌日、彼が入院する病院へ向かった。
ヴァイオリンを持って。

 

「こんにちは」

少年は病院のベッドの上で呆然としていた。

「きみは冥加玲士くんというんだね。昨日名前を聞くのもすっかり忘れてしまって、病室を探すのに苦労したよ」

「………」

「昨日は警察にいろいろ聞かれたりして疲れただろう、大丈夫かい」

少年の視線は王崎のヴァイオリンへ移された。

「ヴァイオリン、持ってきたよ。体調がよければ、屋上で一緒に弾かないかい?」

「…俺は問題ない。行こう」

冥加少年のベッドのそばに置かれていた、「シュトゥルム」。
彼はベッドから起き上がると、シュトゥルムを抱えて真っ先に病室を飛び出した。

 

♪♪♪♪~♪♪~…

「すごいね、玲士くん!上手!…私より上手いんじゃない?」

三人は屋上でヴァイオリンを弾いていた。
冥加少年は小学生とは思えない技術を披露した。
シュトゥルムも、すぐに使い慣れてしまったようだ。

「きみの理想の音は、見つけられそうかい?」

「………。今は、まだ」

「そうか。きみなら、すぐに見つけてしまえそうだね」

冥加少年は、王崎の演奏をとても気に入ったようだった。
彼の目指す演奏スタイルとは違い、目に見える激しさはないものの、万人の心に響くような暖かさを持っている。

両親を亡くした悲しみも、二人と共にヴァイオリンを奏でていると、薄れていくような気がした。
しかし―――

急に演奏をやめた冥加少年を不思議に思い、王崎も演奏をやめた。

「どうしたんだい?」

「………。俺はもう、ヴァイオリンを弾くことはできないかもしれない」

「えっ…。どうして?」

「父様も母様も死んだ。枝織には…俺しかいない。ヴァイオリンを弾いている時間があったら、俺が父様たちの代わりに枝織を育てなければ」

「………。そうだね。妹さんからしたら、もう頼れる人はきみしかいない。けれど、きみは一人じゃないよ。困ったことがあったら、おれに連絡して」

王崎は名刺を取り出すと、冥加少年に渡した。

確かに、音楽をやるには経済的な余裕が必要だ。
ヴァイオリンを弾くことは簡単だ、しかし―――

この年齢にしてこれからのことを背負ってしまった彼に対して、王崎はせめて音楽だけでも満足にできるよう、支えてあげたいと思った。

「…ありがとう」

冥加少年は小さな声でお礼を言うと、名刺を受け取った。

「そんなにいい腕持ってるのに、音楽をやれないなんてもったいないもんね!」

♪~♪~♪♪♪~♪♪♪♪♪♪♪~…

「………!」

香穂子が何気なく弾きだした曲に、冥加少年はぴくりと反応した。

「あ…あ」

♪♪♪♪♪♪♪~

「や…めろ…」

冥加少年は頭を抱えてうずくまった。
香穂子は何事かと演奏をやめる。
王崎は彼に近寄り、顔を覗き込んだ。

「どうしたんだい、玲士くん」

「うあ…あ、………っ!俺に、触るなッ………!」

すごい力で王崎の手を振り払う冥加少年。
その顔は、深い憎しみと怒り、そして絶望で染まっていた。

「うああああああ!やめろッ…やめろおおおお!」

「どうしたの、玲士くんっ!」

香穂子は涙目で呼びかける。

「何をしているんですか、あなたたちは!患者を興奮させないで下さい!」

騒ぎを聞いて駆け付けた看護士が、王崎たちを咎める。
何が起きたのかもわからないまま―――
王崎たちは、病院を追い出されてしまった。

香穂子が弾いた、“ソルヴェイグの歌”。
その曲が、冥加少年の禁じられた扉を開いてしまったのだ―――――

 

 

 

「…それから、彼には一度も会っていないんだ。病院からは出入り禁止にされてしまったし、いつの間にか退院していてね。こちらから彼に連絡を取る手段もなくて…。ずっと、気になっていたんだけれど」

「そんなことが…あったんですか…」

「彼からの連絡もなかったから…。でも、風の噂で冥加玲士という人物が天音学園の実権を握り、今年の全国大会に出場すると聞いてね。久しぶりに彼の姿を見たけど、素晴らしいヴァイオリニストになっていた」

「そうですね…。冥加くんは、とてもヴァイオリン上手ですから。今も、元気にやっていますよ。ただ…まあ、少し性格に難はありますけど」

「はは、小さい頃から大人びた子だったからね。…元気ならよかったよ。ありがとう、小日向さん」

「い、いえいえ。何もできませんで…」

王崎は理事長に挨拶してくると場を辞した。

「(…そうなんだ。玲士くん、王崎さんと会ったことが…)………ああっ!」

かなではぴたりと足を止めた。

「サインもらうの、忘れてた…!」

 

 

 

「おかえりー、玲士くん」

今日は金曜日。
いつものように冥加宅を訪れたかなでは、枝織とチェスをしていた。

「お帰りなさい、兄様。今、かなでさんとチェスをしていましたの」

「チェス………?」

冥加の上着を受け取りながら、かなではにやにやしている。

「へへん、枝織ちゃんにチェス教わってたのー。なかなか筋がいいって!もしかしたらそのうち玲士くんを負かせちゃうかもよ?」

「………フッ」

冥加は鼻で嘲笑し、ソファーに座った。

「戯れ事も甚だしい。お前がチェスで俺に勝つなど、天地が逆転するよりありえんな。それに、教えた者が未熟では上達もしまい」

「兄様ひどい!」

「ふーん。そんなこと言うなら一回勝負しようよ?」

「愚かだな」

 

「………」

「大口を叩いていたわりには、ルールもまだわかっていなかったようだな」

結果は、案の定惨敗。
チェスにとはいえ、かなでを打ち負かした冥加はやたら輝いていた。

「お、おとなげないよ玲士くん!ちょっとくらいハンデくれたっていいじゃない!」

「フン、情けで掴んだ勝利に喜べるのか」

「むう…。も、もう一度!」

「かなでさん、頑張って!兄様なんて負かせてしまって下さい!」

 

枝織の声援も虚しく…
かなでは数十回目の敗北を遂げた。

「も、もう一回!」

「…そろそろ認めたらどうだ、己にチェスの才能がないことを」

「んなことないもん!」

「あの…、かなでさん、兄様。私、そろそろ部屋に戻りますね」

「えっ?」

「明日は朝からお友達と約束をしていますの。だから、今夜は早めに寝ないといけなくて…」

「あっ、そうなんだ。わかった、静かにするね」

「いえ、お気になさらないで下さい。それでは、おやすみなさい」

枝織は部屋に戻ってしまった。
白熱して騒ぎ立てるのもなんなので、かなではチェスを片付けはじめる。

「ふう。やっぱり玲士くんには敵わないかぁ…」

「当然だ」

鼻高々にしている冥加を横目で見て、かなでは今日王崎と会ったことを思い出した。

「ねえ。王崎信武さん…って知ってる?」

「王崎信武…。ヴァイオリニストか」

「あっ、やっぱり知ってた。あのね、今日王崎さんが学院に来ててね。私、話しかけられちゃった!」

「…あの男は星奏学院出身だったか」

冥加は浮かない顔だ。

「玲士くんて…。王崎さんと会ったことあるんだよね?」

「なぜそれを知っている?あの男が話したのか?」

「…うん。玲士くんのこと、心配してたよ。まさか、玲士くんが小さい頃ヴァイオリニストの王崎さんと会ってたなんて…。なんだか運命感じちゃうよね」

「お前は運命という言葉を使うのが好きだな」

「だって運命じゃなーい♪」

「………運命などでは、ない」

「えっ?」

「あの男は………俺が、お前の次に憎んでいる男だ」

「…えっ」

冥加の言葉に、かなでは眉をしかめる。
憎んでいる?
少ししか話していないが、いい人だということはわかった。それなのに?

もはや「お前の」のところにはツッコミを入れる気にはなれなかったが、なぜ冥加が王崎を憎んでいるのか、かなでは食いついた。

「な、なんで?あんなにいい人そうで、玲士くんのことだって心配してくれてたのに!」

「お前が知る必要はない」

「だ、だって」

「かなで」

冥加は強い眼差しでかなでを見据えた。
これ以上聞くな、と牽制する目。
かなではぐっと押し黙る。

「…余計な心配はするな。別にあの男と争おうというつもりはないのだから」

冥加はそれだけ言うと、バスルームに行ってしまった。

…彼は、昔のことを語りたがらない。
辛い過去をあれこれ聞くのはどうかと思うし、恋人が辛そうにしているところも見たくないから、今まで何も聞かずにきたが…

これからずっと一緒にいるなら、彼の過去についても知らなければいけないと感じていた。
が…

枝織にも聞きづらいし、本人もああいう状態だ。
誰かに話を聞けないかな、そう考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

「おいしかったねー、あのお店のケーキ!」

「だろう?今度は君の食べていたケーキにも挑戦してみよう」

ある日の夕方、かなではニアと元町通りを歩いていた。
おいしいと評判のケーキ屋に寄った帰り。

「もうすぐテストかぁ、やだなぁ…」

「私は既に捨てているからな。君も一緒に補習を受けようじゃないか」

「ええっ、そんなのやだよお!」

二人が笑いながら歩いていると、目の前に黒い影が立ちはだかった。
ニアがはっと顔を上げる。

「?」

かなでも、顔を上げると―――

「お久しぶりデスネ、ニア。それから………」

ニアの顔つきが変わり、かなでの前に出るように身を乗り出す。

「小日向…かなでサン」

「あなたは…!」

アレクセイ・ジューコフ。
天音学園の理事長であり、冥加兄妹の義理の父親でもある人物。
以前一度会ったことがあるが、その威圧感は健在だった。

「っ………。なんでお前がここにいるんだ!」

「久しぶりに会ったというのに、ひどい言い方デスネ、ニア。さあ、再会のハグを」

「ふざけるな!気持ち悪い!」

「本当に口が悪くなったものデス…」

シクシクと泣きまねをするアレクセイに、かなでは少し和んだ。
ニアも冥加も彼のことを警戒し、嫌っているようだが、かなでには彼が悪い人のようには見えない。

「…外面で騙されるなよ。奴は危険だ」

ニアが小さな声で耳打ちしてくる。

「せっかく、ここで会えたのデス。ドウですか、ディナーでも一緒に」

「全力で遠慮する。行こう、小日向」

「あっ」

ニアに腕を引っ張られる。

アレクセイ―――彼は、冥加の過去を知る人物。
先日のことを思い出して、かなでは言った。

「ご一緒します!」

「な…、何を言っているんだ、君は」

「おや、嬉しいデスネ。是非、ご一緒しまショウ。…アナタとは、お話シタイこともたくさんありマスし…」

「小日向!何を考えてるんだ!」

「ご、ごめん、ニア。私も、アレクセイさんに聞きたいことがあるの」

かなではニアの腕から逃れる。

「っ………。おい、お前。小日向に何かしたら、承知しないからな」

「何を言っているのデス、ニア。小日向サンは私の可愛い姪と、息子の大切な人デス。…失礼なことはシマセンよ」

「………」

ニアはキッとアレクセイを睨みつけると、背を向けて去っていった。

「さて…。このあたりで一番オイシイお店にご案内しまショウ」

アレクセイの瞳が妖しく光ったような気がして、かなでは後ずさった。

 

「どうデスカ、オイシイでショウ」

アレクセイに連れられて、かなでは高級レストランに来ていた。
ここに来る最中、車の中でも彼は上品に当たり障りのない話をしてきた。

やっぱり、そんなに悪い人とは思えない―――
かなではそう思った。

「…アナタには、私の息子がいつもお世話になっているようデスネ」

「えっ…」

「まさか、あの子に愛する人がデキるとは。少し、心配シテイタのデス」

「あっ…あはは…」

アレクセイは、冥加とかなでが交際していることを知っていたらしい。
おそらく御影が絡んでいるのだろう。
日本での冥加の行動は、逐一アレクセイに報告されているようだ。

「これカラも、息子をよろしくお願いシマス。あの子は、あなたを誰より愛シク思っている。あなたに嫌われたら、死んでしまうでショウ」

「あはは、そんなことないですよ」

にわか雰囲気も和んできた頃…
かなでは、冥加の過去について聞いてみることにした。

「あの…。王崎信武さんてご存知ですか?」

「オウ、ミスタ王崎。もちろん知ってイマスよ。日本が誇るスバラシイ音楽家デスネ」

アレクセイはニコニコと頷く。

「それで、その…。玲士くん、王崎さんと会ったことがあるみたいで。王崎さんのこと…憎んでるなんて言っていて。…何があったのか、気になって…」

「ハア…」

アレクセイは大袈裟にため息をついて、やれやれと首を振った。

「レイジには困ったものデス。母国語も正シク使えないのデスネ。…彼の『憎んでいる』は、『愛している』と同義なのデス」

「え…」

つまり。
冥加が「一番憎んでいる」かなでは、冥加が「一番愛している」ということ。
かなでは赤くなった。

「デスから、ミスタ王崎にも愛情を持っている…というだけデス。レイジは両親を亡くしたあと、ミスタ王崎に励ましてもらったそうデスから」

「な、なんだ…。よかった…」

かなではほっとして胸を撫で下ろした。
考えてみれば、冥加の言葉は真に受けてはいけないのだった。
そんなことも忘れていただなんて…

「…シカシ。あの時は本当に惜しいことをしまシタ。ミスタ王崎は、私の楽団に相応しい腕を持つヴァイオリニストデシタから」

「王崎さんは、本当にいいヴァイオリニストですもんね」

「ええ…」

アレクセイは食後のコーヒーを一口啜り、顔を上げた。

「あの時も、ミスタ王崎をスカウトしたのデスが…。断られてしまいマシタ。本当に…本当に残念だったのデス」

「…は、はあ」

かなでは、某かのどす黒い空気を感じ取っていた。
アレクセイは笑顔を崩さず話を続けているだけなのに。

「私は、日本で育ったスバラシイヴァイオリニストを求めてイタ。レイジのことは、彼が7つの頃から知っていまシタ。とあるコンクールで…幼少ながら、子供とは思えない技術を披露シテいたレイジ…」

「………」

「ミスタ王崎に入団を断られ、私はレイジがたまらなく欲しくなりまシタ。私のもとで思い通り育てることができれば、ミスタ王崎をも超えるヴァイオリニストになる…と」

「………」

「そんなことを考えていた時、偶然にも彼は孤児になってシマッタ。不謹慎にも、ラッキーだとすら思いまシタ。だから、私はあの子を引き取って育てていたのデス」

全身に鳥肌が立つ。

この人は…何を言っているの?
これではまるで…

冥加を自分のものにしたいがために、わざと彼の両親を殺したみたいじゃないか………!

「っ………、す、すみません、ごちそうさまでした。…失礼します!」

かなでは恐ろしくなって、席を立った。
これは、自分の想像でしかないのに。
それなのに、どうしてこんなに怖いのか?

「小日向…かなでサン」

かなでの背後から冷たい声が響いた。

「アナタは全国大会で優勝を勝ち取ったスバラシイヴァイオリニストだ。アナタが望むなら、いつでも天音学園の門を開きマスよ?」

「………っ。失礼します!」

かなでは転がるように走り出し、レストランを去った。

 

 

 

「はあ、はあ、………」

かなでは夜の街をとぼとぼと歩いていた。
…行くんじゃなかった。
とてつもなく残酷なことを知ってしまったような気がする。

全ては自分の悪い想像でしかない、が…

アレクセイは、自分の楽団に王崎を欲しがっていたものの、断られ。
まだほんの子供であったが、才能の片鱗を見せていた冥加に目をつけた。
そして、彼を思い通りに育てたくなり…
邪魔な両親を消した…
実際、冥加一家を死亡事故に遭わせた犯人は、まだ捕まっていない。

ふるふると首を振る。
そんなこと、あるはずがないのに。
だいたい、そんなことをしたなら、すぐに足がついて捕まっているはずだ。

いや…
もし彼が、金の力で自分の手を汚さずに、誰かに「依頼」をしていたら?

そんなことばかりが頭の中を巡る。

『運命などでは…ない』

不意に、冥加の言葉が頭を過ぎった。
彼の、あの言葉。
あの時は聞き流していたが―――

もし、冥加一家の事故の原因がアレクセイにあるとして。
もし、冥加が真実を知っているのだとしたら―――

「運命じゃ…ない」

それは、運命なんて綺麗な言葉じゃない。起こるべくして起こった必然だ。

それに、王崎を憎んでいるという彼の言葉。

もし王崎がアレクセイの楽団に入団することを選んでいたら、冥加は目をつけられることもなく、
両親を失うこともなかった―――?

「っ………」

たまらなく怖くなった。
その足は、無意識に冥加宅へ向かっていた。

 

 

 

ピンポーン…

「あら、お客様だわ。どなたでしょうか、こんな時間に」

「出なくていい」

「どうしてですか?」

「明日は平日だ。かなでではないだろう。出る必要はない」

冥加は興味なさそうに新聞に目をやる。

「もう、兄様ったら。かなでさんじゃないなら出なくていいだなんて…」

枝織は兄の恋している男っぷりに呆れつつ、インターフォンの映像を見た。

「…かなでさん…?」

「………?かなでか?」

「は、はい」

画面に映っていたのは紛れもなくかなでだった。
冥加は枝織の返事を聞くと同時に玄関に向かった。

「明日は平日では―――」

「………」

「っ!」

玄関のドアを開けると同時に、かなでに抱き着かれ、冥加は面食らった。

「!わ、私、お部屋に戻りますね!」

枝織も玄関を覗きにきたが、抱き合っている二人を見て真っ赤になり、バタバタと自室へ向かった。
さすがに妹の前でこんな姿をさらしたことのない冥加は焦ったが、今はそれどころじゃない。
かなでの様子がおかしい。

「…どうした」

「………うっ」

途端に泣き出すかなで。
…彼女の泣き顔には弱い。

冥加はかなでに会っていなかったから、自分のせいではないはず。
となると…
誰かにいじめられたのか?

かなでを泣かせた者が自分ではないことには安心したが、自分以外の者がかなでを泣かせるなんて許せない。

沸々とした怒りを抱えながら、冥加は言った。

「誰に泣かされた」

「っう、ひっく、………」

かなでは答えない。
ここにいても仕方ない、と冥加はかなでを支えながらリビングに向かった。

 

「………」

泣き止まないかなでの隣に座って、冥加は彼女を抱きしめながら、ずっと涙を拭っていた。

「何があった」

いつもは地に響くような声で皮肉たっぷりに話すくせに、こういう時は優しい。
かなでは泣き腫らした目で冥加をじっと見つめた。

「アレクセイさんに…会ったの…」

「なに………?」

自分でも滅多に口に出さない忌ま忌ましいその名。
なぜかなでの口からその名前が出てくる?

かなでと再会し、彼女と一緒にいる時間が長くなればなるほど薄れ、忘れていった激しい憎しみ。
それが今、再び燃え上がっていくような気がした。

「なぜお前があの男と会った。…何をされた!」

冥加のこぶしが震える。
彼の怒号に、かなではびくりと震えた。

それに気づいて、冥加はなんとか自分を落ち着かせる。

「ニアと…いた時に…、偶然…道端で会って…それで…食事に誘われて…」

「のこのこついていったというのか」

「う…」

さめざめとまた泣き始めるかなで。

あの男のことは、口に出すのも厭っていたから、かなでに忠告をすることすらしていなかった。
それは、冥加の落ち度だ。
しかし、今はそれを悔いている場合ではない。

一体、あの男はかなでに何をしたのか―――

「…ついていったことは咎めない。何をされたのか言え」

「………」

「かなで」

「………。何も…。されてない。話をしただけ…でも」

ぎゅ、とかなでが冥加の服を掴む。

「その話を…聞いてたら…。玲士くんの家族が事故に遭ったのは…アレクセイさんのせいなんじゃないかって…思っちゃって…」

「……………なるほど、な」

「え…?」

冥加は驚きも怒りもしない。
かなでの方が驚いて、冥加を見上げた。

「玲士くん…?」

「そんな可能性は、とうの昔に知っていた」

「え………?」

冥加は急に立ち上がった。
ソファーの上にあった上着を羽織る。

「今日は泊まっていけ。明日はここから登校しろ。………枝織」

「は、はい!」

枝織は自室から出てきた。

「かなでを見ていろ」

「えっ…は、はい。あの、兄様はどこへ…」

枝織の問いにも答えぬまま、冥加は家を出ていった。

 

 

 

「おや…。久しぶりデスネ、レイジ。アナタから会いにキテくれるなんて、嬉しいデスヨ」

「………」

天音学園の理事長室。
そこに、アレクセイはいた。

冥加はアレクセイと対峙し、彼を睨みつけていた。

「再会の挨拶はないのデスカ?…そんな礼儀のなってイナイ子に育てた覚えはアリマセンよ」

「………小日向かなでに接触したそうだな」

「オウ!もうばれてしまいマシタか。ええ、会いマシタとも。可愛らしいお嬢さんデスネ、小日向かなでサン」

「………」

冥加はじりじりとアレクセイに近づいてゆく。

「アナタの、その目…。久しぶりに見マシタよ。憎しみの炎を宿らせた目…。実に、美シイ」

「俺とかなでの関係を知って、わざとあの話を吹き込んだな」

「先程からひどい言い草デス。息子の恋人に会って話をして、何がイケナイというのデスカ?」

「ふざけるな!貴様を一度だって親などと思ったことはない。この殺人鬼が!」

「オ~ウ…」

アレクセイは額に手をやり、落胆したように頭を振った。

「なんということデショウ…。育ての親を親とも思わない暴言ぶり…殺人鬼なんて、勘違いもいいところデス…私は悲シイ…」

「貴様は王崎信武に入団を断られたゆえに、新しい駒を探していた。目をつけた俺がまだ子供だったことが好都合だとでも思ったのだろう。組織の連中に俺たちの乗る車を事故に遭わせ、まんまと俺たちを引き取った!」

「………」

アレクセイは薄笑いを浮かべながら冥加を見ている。

「フッ…フフ…」

「…何がおかしい」

「ブラボー!…よくその答えにたどり着きマシタね。でも、アナタがその答えにたどり着いたところで、何も変わりはシナイ」

「なんだと…!」

「証拠は…あるのデスカ?私は、アナタがた一家を事故に遭わせた車に乗っていたわけじゃアリマセン」

「くっ…」

アレクセイの言う通りだった。
数年前、「もしかして」という思いから、冥加がたどり着いた結論。
方々をあたり調査をしたものの、「アレクセイが誰かに依頼をして冥加一家を事故に遭わせた」という証拠になるものは何ひとつ出てこなかった。

「貴様は殺人教唆をしたことを認めているだろう!」

「サア?なんのことデスカ。私は今までに一度でも、『冥加玲士の家族を事故に遭わせるよう指示シマシタ』などと認めたことはアリマセンよ。全ては…アナタの妄想デス」

いつか冥加がその「答え」にたどり着いたとしても―――
証拠がなければ、なんとでも言い逃れはできる。

アレクセイが、そこまで考えていなかったことの方がありえないのだ。

「貴様………!」

冥加はアレクセイの胸倉を掴んだ。

「私を殺シマスか、レイジ?」

アレクセイは顔色ひとつ変えず冥加を見据えている。

「孤児となったアナタを引き取り育てた恩人を殺した犯罪者…。世の中がアナタに与える評価はそんなものデス。塀の中ではヴァイオリンも弾けマセン。愛する人とも…会えなくなりマスヨ?」

♪~♪~♪♪♪~♪♪♪♪♪♪♪~…

部屋の中のオーディオから流れ出した「ソルヴェイグの歌」。

「…無駄だ。貴様の調教の鞭は、もう俺には届かない」

「オウ…、そうデシタか。いつの間に克服したのデスカ?…トラウマに苦しむアナタを見るのも、私の楽しみダッタのに」

「幼い頃から…俺が思い通りにならないと、いつもこの曲を聞かせたな。…貴様の所業、忘れんぞ。いつか必ず、地獄の底へとたたき落としてやる………!」

「いい目デス、レイジ」

冥加はアレクセイから乱暴に手を離すと、彼に背を向けた。

「…ソウソウ。小日向かなでサン…彼女もまた、アナタと同じ答えにたどり着きマシタ。少し話シタだけなのに、彼女は聡い子デスネ。本当に…可愛ラシイ」

部屋を出ようとしていた冥加の足が、ぴたりと止まった。

「私もあの子が欲しくなりマシタ。ヴァイオリンの才能も申し分ありマセン。…実に、いい駒になってくれそうデス」

ヒュッ…

ダン!

冥加の傍らにあったコートかけが、まるで矢のように飛んだと思うと…
アレクセイの左胸すれすれのところを通過し…
部屋の壁に突き刺さった。

「小日向かなでに指一本触れてみろ。俺は己の全てを犠牲にしてでも、必ず貴様を殺す―――」

冥加は一度だけ振り返り、そう言い放った。

「…楽しみにシテイマスよ、坊や」

冥加は荒々しくドアを開き、部屋を出ていった。

「アナタの憎しみは愛とまた同義…。アナタが私に執着すればするほど、アナタの音楽は深みを増すのデス…」

 

 

 

枝織が15を過ぎる時まで。
冥加は、そう決めていた。
枝織が15になったら、二人まとめてアレクセイの養子を抜ける。

そのために、冥加はずっと耐えてきた。
自分の地位を確立し、二人の生活を支えられるように。

憎んでも、憎んでも、底にある悲しみから逃れることなどできなかった。

自分のせいで、両親は死んだ。
枝織から両親を奪ったのは、自分なのだ。

償いの道を、罪という十字架を背負って歩くのは、想像を絶する苦しみとの戦いだった。

その道に、一筋の光を与えたのは―――――

 

「玲士くん…?」

突然出かけていった冥加を心配し、マンションの外で彼を待っていたかなで。
ふらふらとおぼつかない足取りでこちらに向かってくる冥加をとらえ、駆け寄った。

「玲士くん!どこに行っ」

急に抱きしめられて、かなでは言葉を失った。

彼の大きな体は、なぜか弱々しく見える。

「………見るな」

体を離して顔を覗き込もうとしてきたかなでに、冥加は言った。

「今は…。俺の顔を見るな」

こんな情けない顔を、お前に見られてたまるか―――

かなでは頷くと、そっと彼の背中に腕を回した。

 

 

 

 

 

 

 

「今日も素晴らしい演奏でしたよ!」

「お疲れ様でした」

「ありがとうございます」

横浜みなとみらいホールの楽屋は賑わっていた。
何年ぶりかの凱旋コンサート。

たくさんの人に囲まれ、王崎は笑顔で応えている。

「王崎さん、出身校の生徒さんがみえてますが…お通ししてよろしいですか?」

「えっ?出身校の?…ええ、もちろんです。入ってもらって下さい」

スタッフから言われて、王崎は快く頷いた。
出身校の生徒…とは、一体誰だろう。

「………王崎さん!」

「あっ………。小日向さん!」

先日、学院の正門前で声をかけた彼女だ。
そして、その隣には…

「きみは…冥加くん?冥加玲士くんかい?!」

「………」

すっかり大きくなってしまったが、彼は確かにあの日の少年だ。
王崎は嬉しそうに近寄った。

「元気そうで安心したよ。小日向さん、冥加くんを連れてきてくれてありがとう!」

「いえ、彼も王崎さんに会いたがっていましたから」

「っ…」

何を言っている、と反論してきそうな冥加を視線で牽制する。

「素晴らしいコンサートでした!」

「ありがとう。久しぶりに横浜でヴァイオリンを弾くことができて、嬉しかったよ」

冥加はなんと言ったらいいのかわからず、黙り込んだままだ。
そんな冥加を察してか、王崎は言った。

「全国大会できみの演奏を聞かせてもらったよ。とても上手になったね。シュトゥルム、とてもいい音を出してた」

「……………」

冥加は無表情だが、なんだか照れているみたいだ、とかなでは思った。

「………もし、俺が」

「ん?」

「あの時、あなたに連絡を取っていたら…。違う道を歩んでいたのだろうか」

「冥加くん…」

冥加は大人になった。
しかし、それは時の流れのせいだけではない。
きっと、すごく辛い目に遭ってきたのだろう―――話を聞かなくても、それがわかる。

王崎は悲しそうな顔で答えた。

「違う…人生か。そうかもしれないね。けれど、どちらの道を歩んでも、どちらがよかったかなんて誰にもわからない。きみが歩んできた道は、辛いこともあったのかもしれないけれど…これからの道は、きみ次第で変えていけるんじゃないかな」

いつもなら「大きなお世話だ」なんて怒りだしそうな冥加だが、王崎の言葉だけは素直に聞き入れているようだった。

「…そうだよね、小日向さん。きみは、冥加くんの人生を幸せに彩る役目の人なんじゃない?」

「えっ?!…あ、えっ?!」

気づかれていたのか。
かなでは赤くなった。

「…そうだ。実はね、明日おれが会長を勤めるボランティア団体のミニコンサートで演奏するんだ。よかったら、きみたちも一緒にヴァイオリンを演奏してくれないかい?」

「ええっ?!」

「………っ」

かなでも冥加も驚いてしまった。

「あっ…。いきなりだし、だめかな」

「いえ、私は大丈夫ですっ!玲士くんも、大丈夫だよね?!」

「っ…、」

「大丈夫です!二人で行きます!」

かなでは強引に承諾した。
冥加は戸惑った顔をしているが、そんなのお構いなしだ。

「…よかった。きみたちが来てくれたら、みんなも喜ぶと思うな」

「なんのための団体なんですか?」

「事故や病気で両親を失って、身寄りがなくなってしまった子供たちのための支援団体だよ」

「………!」

「…きみに、いつ連絡をもらってもいいように設立したんだけど…。遅くなってしまったね。何もできずに、本当にごめんよ」

「………。いえ」

「(なんで『ありがとうございます』って言葉が出てこないかなぁ、玲士くんは!)」

しかし、王崎はいやな顔ひとつしていない。
かなでは冥加の不器用ぶりに呆れつつ、彼の足を踏んだ。

「ッ!何をする!」

「王崎さん、もしかして…。明日は王崎さんの彼女さんも来たりするんですか?」

「うん、もちろん。二人にも紹介するね」

「やったぁ♪」

 

王崎と連絡先を交換して、二人は帰路を辿っていた。

「本ッ当、王崎さんていい人だね」

「………。甘いにもほどがあるな。あのような人柄で世間を渡っていけるとはとても思えん」

「少なくとも玲士くんよりは上手に世渡りできるんじゃな~い?」

「…なんだと」

むっとしながらかなでを見ると、彼女もまたじっと冥加を見つめていた。

「ねえ、玲士くん。私、これから先は、玲士くんをいっぱいいっぱい幸せにしてあげるね」

「………」

得意げにいい放つかなでに、冥加はふっと笑いを漏らす。

「…お前が俺を幸せにする?バカも休み休み言え、そんなことができるわけないだろう」

「なによそれ!」

「こうしている今も、お前の顔を見ているだけで腹が立って仕方ないというのに」

「ムカつくなぁ。せっかくいい話してるのに」

「ッ!」

かなではまた冥加の足を踏んだ。

「………かなで。先程から調子に乗りすぎだ。仕置きが必要だな」

ぎろりと睨まれ、かなではかたまった。
それから―――

冥加は、かなでに「仕置き」のキスを落とした。

END