Wound |
『ケガ…してんのか?』 『待ってろ、病院連れてってやる』 『…あ?寒ぃのか…?そうだよな、こんな雨ざらしん中で…』 恐持ての内面に隠した優しさを、少女は見ていた。 普段、仲間内には見せないその無防備な笑顔も。 誰も見ていない中、照れることなどせず綻ばせた顔は、少女が知る誰よりも優しい顔だった。 ずきん、と胸が痛む。 ほんの少しでも、あの優しさに触れられたら。 あの眼差しを、自分に向けることができたら。 それは、縋る者もない小さな命に対する嫉妬だったのかもしれない。 子猫を抱き上げて懐に隠し、雨の中去っていく彼を、少女はその姿が見えなくなるまで眺めていた。 「………うっ」 「…少し我慢しろ」 夕暮れの菩提樹寮。 ひざまずく火積の前で、かなでは涙で瞳を潤ませ、顔を歪めていた。 …染みる。 「ひざ小僧擦りむく奴を見るなんざ…ガキの頃以来だな」 火積は少し笑って、少し呆れて、それでも優しい眼差しでかなでを見上げた。 「うう…、私、おっちょこちょいで…。ごめんなさい」 「俺に謝るこたぁねぇよ」 手際よく消毒を済ませ、自然治癒を高める絆創膏を貼って、火積は立ち上がった。 ついさきほどのこと。 練習を済ませて菩提樹寮に帰ってきた火積は、エントランス前に半ベソをかきながら立ち尽くすかなでを見つけた。 何事かと駆け寄ると、転んで膝を擦りむいたのだという。 火積は急いで寮内へ連れ込み、傷の手当を始めた。 「ありがとう、…火積くん」 「礼言われるほどのことじゃねぇ。…気をつけろよ、あんた、なんだかいつもぽやっとしてっからよ」 「う、うん…」 赤くなるかなでを見て、火積は素直に彼女を可愛いと思った。 子供っぽい子だとは思っていたが、まさかここまでとは。 子供の頃を思い出して、くすりと笑う。 火積は男の子だったから、ちょっとしたかすり傷などろくな手当もせずに放置していた。 お陰で、その時の傷がいまだに残っていたりもする。 そこまで思い出して、救急箱をしまおうためかなでの元を去ろうとした火積は、振り返って言った。 「治りかけは痒くなっかもしんねえが…弄るなよ。あんたは女なんだ、傷なんか残しちまったらことだからよ」 「………!」 「?」 かなでが目を輝かせた…というか、なぜか赤くなったのを見て、火積は首を傾げた。 「おや、ひなちゃんどうしたんだい、その足」 全国大会に向けての練習の集まりに参加した大地は、かなでの膝を目敏く指摘した。 「転んで擦りむいたんだとよ。ったく、こいつ小さい頃からおっちょこちょいだからよー」 本人の代わりに響也が答えて、律が腕組みをしながら頷く。 「…火積が迅速に手当てしてくれたお陰で、大事には至らなかったらしい」 「おいおい…大事って、そもそもかすり傷だろ?」 「はは、相変わらず可愛いなひなちゃんは。転んで膝を擦りむくなんて、まるで小学生みたいだ」 「笑い事じゃありませんよ、大地先輩。全国大会を控えているというのに、演奏に響いたらどうするんです」 ハルは厳しい眼差しでかなでを見据える。 「以後、気をつけて下さい。小日向先輩」 「う…うん…」 しょんぼりするかなでを見て、響也や大地が慌ててフォローに入り… その日の練習は、滞りなく終了した。 「ほ、火積くん」 「………?なんだ」 夕食が終わり、それぞれが各自自室に戻っていく中、かなではおずおずと火積に声をかけた。 「もうこれ…、はがしても大丈夫だと思う?」 かなでは膝を示して言う。 彼に手当てをしてもらった日から、きちんと言い付けを守って触れないようにしていた患部。 ああ、と火積は少し驚いて返した。 「もう痛くねぇんだろ」 「う、うん。痛いの通り越して、痒くなって…痒いのも通り越した」 「じゃあもう治ってんじゃねぇのか。…はがしてみても大丈夫だろ」 「うん。じゃあ…はがすね」 かなではソファーに腰掛けて、絆創膏をゆっくり剥がした。 万が一傷が残ってやしないかと、火積もその動作を凝視していた。 「………あ」 「ああ、綺麗に治ってんな。…よかったじゃねぇか」 ほっと胸を撫で下ろし、火積が言った。 「うん…!あ、ありがとう…、火積くんのお陰で…ちゃんと治った…!」 「…大袈裟だ。まぁ…よかったな」 それだけ言うと、火積はじゃあな、とかなでの元を去っていく。 「(…あ、)」 呼び止めようと思ったが、今のかなでに火積を呼び止める理由も事情もない。 彼の後ろ姿を掴むように差し出した手だけが、虚しく宙を舞った。 「………」 胸にぽっかりと穴が開いたような気分になる。 どうしてだろう? 「(傷が…、治ったから…)」 そうだ。 傷が治ったから。 傷が治ったら、もう火積はかなでに構う理由がないのだ。 なぜだか、泣きたくなった。 無性にこの空疎な胸の内を、何かで埋めたくなった。 「………ひなちゃん?」 いつものアンサンブル練習の時間。 先日見たところと今度は違う場所に絆創膏を貼っているかなでの姿を見て、大地は目を丸くしていた。 「っはー。かなでの奴、また転んでケガしたんだと。この前は左足だったけど、今度は右足」 「…今回も一番に火積が気づいてくれたらしくてな。手厚く手当てしてくれたそうだ」 彼らの言う通り、かなではまた膝にケガをしていた。 今回は公園でのできごとだったのだが、たまたま近くを通り掛かった火積に発見され… 歩けないほどのケガではなかったにも関わらず、彼はかなでをおぶって寮に戻り、すぐに手当てをしてくれた。 「………。ひなちゃん、小さい頃から結構生傷が絶えなかったタイプ?」 「そんな大袈裟なもんでもないけど、確かによく転んで泣いてたかもな?」 「きょ、響也。余計なこと言わなくていいよ」 「はは、…ひなちゃん?お転婆な君も可愛いけれど、そろそろお転婆は卒業の歳じゃないかな」 「大地先輩はまたそういう…って、小日向先輩!この前気をつけるよう注意したばかりじゃないですか!まったく!」 「ご、ごめんね、ハルくん…」 「まあまあ、ハル。演奏に大きな影響が出そうなケガでもないし、今はひなちゃんの体を労ろうよ」 大地の言う通り、かなでのケガは演奏に影響が出るようなものではない。 それでも、ハルを含め男性陣は、女性であるかなでが体に傷を負うことを心配していたのだった。 「………傷、痛まねぇか」 「!」 昼前、外で練習していたかなでは、声をかけられてびくりと跳ね上がった。 「ほ、火積くん」 「そんなに驚くんじゃねぇよ…こっちがびっくりすんだろ…」 「あ…、ごめんなさい!」 「いや…謝られることじゃねぇ。しかし…」 火積は少し呆れたように笑って、かなでを見つめる。 「あんた…、まるで小動物みてぇだな。ちっちぇえ体でいつもせかせか動き回って、急に声かけるとビクビクして。危なっかしいところも」 「っ………」 「………?っ、すまねぇ。別に悪い意味で言ったわけじゃねぇんだ。バカにしたわけでもなく…なんてぇんだ、その…」 火積は照れたように前髪をかきあげ、本当に小さな声でぽつりと発した。 「小動物みてぇに…可愛いってこった」 「………!」 まさか彼の口から「可愛い」なんて言葉が出るとは思わず、かなでは喜ぶのも通り越してぽかんとしてしまった。 火積はぷいと背中を向け、「変なこと言って悪かった」と一言だけ言うと、去っていった。 彼の発言が、自分を女性として見てくれているものではなくても、「可愛い」とたった一言もらえただけで、全身の細胞が震えるくらい嬉しい。 ―――彼は、弱者に弱いのだ。 傷を負った者、助けを求めている者。 弱きをその手で救済する、大きな優しさを持っている。 「………」 治りかけの膝の傷が痒かった。 その感覚が、焦りと、不安を呼んだ。 「……………!」 菩提樹寮に帰宅した火積は、軽いデジャヴのようなものを覚えた。 膝から血を流した痛々しい少女の姿。 彼女は火積の姿を認めると、膝を引きずるようにして近寄ってきた。 その顔は何かに縋るような、痛みを堪えるような弱々しい表情。 「っ…どうしたんだ」 彼女が火積に近づくより先に、火積の方から彼女に駆け寄る。 「砂利道で、転んで…」 「また転んだのか…?」 砂利道で転んだからだろうか。 その傷はこれまで彼女が負ったどれよりも深く、大きかった。 「っ…ほら、早く水道んとこ行って、傷口洗うぞ」 「う、うん」 彼の無骨な手に掴まれた腕。 その熱に、膝の痛みも忘れて赤くなる。 「石は…、入ってねぇみたいだな」 表の水道で傷口を洗い直し、火積はラウンジにかなでを連れてきた。 「…どうしたんだい」 ラウンジには先に戻っていた八木沢がいた。 慌てふためいてかなでを連れてきた火積に、何事かと目を丸くする。 が、次の瞬間かなでの足元を見遣って、納得した。 「ケガをされてしまったんですか?」 ソファーに座らされたかなでを心配そうに覗き込む。 「砂利道で…、転んだらしくて」 「砂利道で…?痛かったでしょう、小日向さん」 八木沢も火積もかなでの前にしゃがみ込む。 傷口は洗い流したが、まだ血は止まっていない。 「そういや…、あんたあんなとこで何してたんだ?」 「えっ」 「あんなとこに立ち尽くしてないで早くラウンジ入りゃ、八木沢部長に手当てしてもらえたのによ。俺なんかがやるより、八木沢部長のがもっと丁寧に」 「っ………、痛くて、どうしたらいいかわからなくて…、八木沢さんが中にいるのも、知らなかったしっ…」 「………」 それを聞いて、火積は無表情になる。 かなでは慌てた。付け焼き刃の言い訳だ、まさか彼は何か疑って――― 「…そうだよな。ひでぇ傷だ。痛くて、頭も回んなかったんだな」 あの目だ。 弱い者を包み込むような優しい眼差し。 「早いとこ手当て…いや、部長にやってもらった方がいいか」 火積は八木沢を見遣った。 大雑把な自分がやるより、丁寧な八木沢にやってもらう方がいいだろう。 今までかなでを手当てしてきた時は、他に誰もいなかったから、自分がやることになっていたが――― 「…いや、火積。君が手当てしてあげなさい」 「………あ?なんで…ッスか。だって、八木沢部長のが…」 彼なら「任せて」と快く引き受けてくれると思ったのに。 断られ、火積がやれと言われ、少々面食らった。 「君が誰かを手当てするなんて姿を見るのは初めてだし、単なる好奇心だよ。…ね、小日向さん」 八木沢がかなでを一瞥すると、彼女はなぜか安心したように頷いた。 「んな…、別に傷の手当てすんのは、これが初めてじゃねぇし…」 手当ては八木沢が適任だと思ったのは確かだが、彼から直々に任されたとなると少し嬉しいような、誇らしいような、照れ臭いようなそんな気持ちになる。 「じゃあ…、このままうだうだしてるわけにもいかねぇし。…染みんぞ」 すっかり火積専用になった救急箱から、消毒薬とガーゼが取り出された。 「…火積、」 手当てが終わって、かなでは自室に戻っていった。 火積も一旦自室に戻ろうとしたが、八木沢に引き止められる。 「なんスか」 「小日向さんがケガをしたの、これが初めてじゃないね?」 「…ああ、そうです。前にも2回、治ったと思ったらまた新しい傷作ってきて…、子供みたいなヤツっスね」 それは呆れではなく、まるで危なっかしい妹を想う兄のような眼差しだった。 実際に妹がいる火積のこと。 「…そうだよね。少し前にも、小日向さんが膝に絆創膏を貼っているのを見たし」 「…星奏の奴らにも注意しといた方がいいかもしれないッスね。危なっかしいから、目ぇ離すなって」 「うん…そうだね…」 八木沢は何か考え込んでいるように生返事を返した。 そんな八木沢を、火積は不思議そうに眺めていた。 「……………」 全国大会を目前に控えた、最後のアンサンブル練習の日。 以前よりも大仰な処置が施されたかなでの膝を見て、大地はもう軽口を叩いたりしなかった。 「…砂利道で転んだんだと」 大地の様子を察して、響也が言った。 響也と律はかなでと同じく寮住まいのため、大地よりも早くかなでがまた膝をケガしたことを知っていた。 そして、彼らの最初の反応も大地と同じで。 「………、ひなちゃん」 大地は真摯な眼差しでかなでを覗き込み、言った。 これは詰問の目だ。そう悟って、かなではびくりと体を震わせる。 「…平行感覚が鈍るとか、ふらふらするとか、そういうことはないかい?」 「えっ…」 「いくらなんでも…たとえ君がお転婆なのだとしても、この短期間にこれだけ転んでケガをするのはおかしい」 「っ………」 「ひなちゃん。何か悩んでいたり、体に不調があるなら言ってごらん?」 響也も律もハルも、黙ってそのやり取りを見ていた。 彼らもまた、大地と同じことを考えているのだ。 どうしよう。 何か、言い訳しなきゃ――― 「ふ、ふらふらしたりしてない。別に体がおかしいわけでもっ…」 「本当に?」 「ほ、本当!ぜ…全国大会が近くなって、緊張してて…、ぼーっとすることが、多いから、それで」 「………」 大地はじっとかなでを見つめたままだ。 どうしよう。これで納得してもらえないなら、次はどんな言い訳をすればいいんだろう。 焦り、じわりと涙が溢れてくる。 「………わかった」 ぽん、とかなでの頭に大地の手が置かれる。 「緊張しているのは俺たちも同じだ。つまり、君は一人じゃないってこと。今も、全国大会のステージの上でも俺たちは一緒だ。一人で抱え込まないで、ね?」 「は…はい…」 じゃあ練習を始めようか、と大地は律に目配せした。 「…いいんですか」 練習を終え、寮に帰っていったかなでたちとは反対方向の道を、大地とハルは歩いていた。 「…小日向先輩のあれは、絶対全国大会への緊張とか、そんな理由じゃないはずです!大地先輩、まさか小日向先輩の言ったことを鵜呑みにしたんですか!」 あのまま練習を始めてしまったが、 ハルは全く納得がいかなかった。 しかし、大地や、律も響也もそれ以上追求しなかったため、時間が惜しいこともあって言い出せなかっただけ。 ハルには、大地が問題から目を背けているだけのように見えた。 だから、憤った。 「まさか」 …しかし、大地の口から出たのは意外な言葉だった。 「まさか…って」 大地はいつものようににこにこした顔を少しも見せず、語る。 「ひなちゃんが何か問題を抱えていて、それをごまかしているのはわかっているさ」 「それならなぜ!」 「…ハル、君こそわからなかったのか?ひなちゃんが、泣きそうになりながら必死に言い訳していたこと」 「………それは」 「それこそ、あの場でひなちゃんを追求して何を得られたんだい。彼女をますます混乱させて、練習どころか全国大会出場すらできなくなってしまうかもしれない」 「っ………」 「ある意味…無責任で、無慈悲な考え方だけれどね。さっきも言ったように、ステージに立つのはひなちゃん一人じゃない。俺や、君や律や響也…みんな、一緒にステージに立つんだ。彼女に何があったのかはわからない、でもそれを今聞き出して、他のメンバーの心を乱したら?」 『全国大会のステージの上でも俺たちは一緒だ』 それは表向き、かなでを安心させる言葉でありながら、実は厳しい言葉でもあったのだった。 一人じゃない…それは裏を返せば、一人の問題は、他のメンバーも一緒に抱えるということ。 「…俺たちだって、全国大会のためにここまでやってきた。…ひなちゃん一人のために、今、やってきたことを全て無駄にするわけにはいかないんだ」 「………」 「今は…ね。全国大会で優勝を勝ち取ったら、改めて彼女に話を聞くさ」 「…大地先輩」 ハルは反省するように俯いた。 「確かに…大地先輩のおっしゃる通りです。まさか、そこまで考えていらしたとは。…直情的な自分が、いやになります」 「はは、まぁその直情的なところがお前の可愛いところだよ」 大地はハルの頭をぽんぽんと叩いた。 子供扱いにむっとしたが、ハルはすぐに睫毛を伏せ、言う。 「…大丈夫でしょうか。今回のケガは、前よりも大きいみたいだ。もし…」 「演奏に影響が出たら?」 「っ、違います!僕がいつも演奏のことばかり考えてるなんて思わないで下さい!」 「ははは、わかってるよ、冗談だ」 「傷…」 ぽつりと呟くハル。 大地も頷いた。 「傷が残ったりしたら…、小日向先輩は女性ですから。それは…ちょっと」 「まぁ、歩くことも立っていることもできているから、化膿させなければ綺麗に治ると思うけれどね。…万が一傷が残ったら、うちの病院で形成手術することもできるし」 「あっ…」 そうだった。 大地の実家は病院。その手のことは、一番任せて安心できる人。 「目に見える傷よりも、問題なのは…」 それきり、大地は黙り込んでしまった。 ハルもそれ以上何も発することなく、家路を辿った。 かなでのケガ以外、万全の体勢で望んだ全国大会は、晴れて優勝。 今日は祝賀パーティーを兼ねて、至誠館や神南、菩提樹寮に一時滞在していたメンバーとのお別れ会が開かれた。 夢見ていた全国優勝を遂げたにも関わらず、かなでの心はモヤモヤして、喜びに浸ることができないでいた。 それは、 ―――今日で、彼とお別れだから。 かなでが視線を向けたのは、新や狩野と話をしながら料理を食べている彼。…火積。 膝のケガは、完治とまではいかないが、ほぼ治ってきていた。 「………あ」 かなでの視線に気づいたのか、火積がこちらへやってくる。 「…優勝、おめでとうな」 「っ…。う、うん、ありがとう…」 「なんだ、でけぇことやり遂げたんだ。もっと嬉しそうな顔、しろよ」 火積は小さく笑う。 その眼差しには、尊敬の念が込められていた。 星奏学院―――自分たちが敗ってしまったから、彼らは全国大会に勝ち上がれなかったのだ。 本来ならば素直に祝辞を述べることさえ難しい相手。 そんなことを考えていると、まるでかなでの思考を読んだかのように、火積は言った。 「…俺たちゃ、あんたらに負けた。悔しい気持ちは変わらねぇ。でもよ…、部長も含め、俺たち至誠館の生徒は、負けたのがあんたらで良かったとすら思ってんだ」 「え…」 「だってよ、全国で頂点になった奴らだろ。そんなすげぇ奴らと競えただけでも、俺たちゃ…」 「………」 少ししんみりした空気を拭うように、火積は改めて、というように切り出した。 「そういや、膝。どうだ」 「あっ…、え…」 「もう痛くねぇのか?」 「う…うん…」 言わなきゃ、と思った。 かなでが、彼と出逢ってから、彼のことをどう想ってきたのか。 そして、これからどうしたいのか。 「火積くんには…今まで…何度も手当てしてもらって…」 違う。 今言わなくてはいけないことは、そんなことじゃない。 なのに――― 拒絶されることが怖くて、一番言いたい言葉が出てこない。 「んな義理堅く礼言うな…。ケガしたヤツがいるなら手当てすんのは当然だ。それより、これからはもっと気ぃつけろよ」 「うん…」 「来年もまた、大会のステージで会ったら…そん時はよろしくな」 「(あっ………!)」 行ってしまう。 行ってしまう。 引き止めなきゃ。 なのに言葉は出てこない。 すぐ近くのテーブルに戻っていった彼の背中が、 なんだかとても遠くに見えた。 「優勝おめでとう、如月くん」 「ああ。…ありがとう」 律と八木沢は、祝賀パーティーで盛り上がる他の生徒たちを、部屋の隅の方で微笑ましく見守っていた。 「君たちはやっぱりすごい。…高校生活最後の夏に、とてもいい思い出をもらいました。僕たちももう思い残すことなく、仙台に帰れる」 「…そうだな。お前たちも、帰ってしまうのか…。今まで寮で一緒に暮らすことが当たり前のようになっていたから、お前たちが帰ってしまうのが不思議なくらいだ」 律は寂しげに睫毛を伏せ、手にしていたドリンクをひとくち飲んだ。 「…でも、ひとつだけ。気になることがあったんです」 「気になること…とは?」 「彼女…小日向さんのことなんですけれど」 八木沢は、声を抑えがちに話した。 かなでのケガのこと。最後にケガをした日、その場に立ち会っていたこと。 「あなたがたももちろん…小日向さんが何度も膝にケガを負っていることを、不思議に思っていたと思います。僕も、それについて思うところはあったんだけれど…」 「………」 「もしかして。小日向さん、わざとケガをしていたのではないかと」 「…わざと?なぜだ?」 当然の疑問だ。 ケガは不慮の事故でするものであって、わざわざ自分からするものではない。 「火積に手当てをされたくて、ですよ」 「…火積?」 予想外の名前が出てきて、律は眼鏡を直す。 「彼女は火積に何度も手当てされたそうです。あの寮には他にも何人も住んでいるのに、今まで小日向さんがケガをしているところに立ち会ったのは火積だけだ。それだけなら、偶然もあるものだ、で納得できたけれど…」 ―――火積に手当てされている時の小日向さんが、とても嬉しそうで。 「………それで。火積に手当てされるために、わざと…と。…考えすぎかな」 普段は色恋沙汰に疎いくせに、なぜかそう思ってしまって…と八木沢は顔を赤くした。 「………。いや」 律は否定しなかった。 彼の話を聞いて確信したというか、全てが繋がったような気がしていた。 しかし、こういった心情的な問題は、専門外というか、どう対処したらいいのかわからない。 大地に相談しなくては、と律は八木沢に礼を言うと、真ん中のテーブルで神南のメンバーと話している大地を呼びにいった。 「………火積、か」 かなでのケガについて、八木沢から得た情報も交えて話すと、大地は顎に手をあてて考え込んだ。 「なんとなく、事情は把握した気にはなったが…何をどうしたらいいのか、具体的なことは俺にはわからない」 ふう、とため息。 大地は少し笑って、問題は、と言った。 「もし、俺たちの考えている通りだとして。…これからだ」 「…これから?」 「火積は今日で仙台に帰ってしまうんだぞ?」 火積と会話を終えた後。 パーティーは終わりに差し掛かっているとはいえ、まだ続いている。 同じ部屋の中、話し掛けられる距離に彼はいるというのに、かなでは話し掛けることも、近寄ることもできないでいた。 本日の主役といってもいいかなでは、その間にもいろんな人に話し掛けられて、囲まれて。 だが、全て上の空で対応していた。 気がつくと火積がいる方ばかり見つめてしまって… 「ひなちゃん」 「………?」 大地だ。首を傾げると、大地はウインクして屋外を示した。 「ちょっと話したいことがあるんだ。ね、ついてきてくれないかい」 「なんや、告白?」 すかさず割り込んできた土岐。 大地は面倒だな、とあからさまに顔に出すが、土岐は素知らぬふり。 「そうそう、告白だよ。だから君に構っている暇はないんだ、じゃあ行くよひなちゃん」 「あっ、」 大地はかなでの手を取ると、土岐から逃れるように屋外へ向かった。 「………あの」 おそらくさっきのはいつもの冗談、軽口だとは思うが… 確かにこの雰囲気は告白のシチュエーションだった。 誰もいない裏庭に、かなでと大地の二人。 「ふう、土岐のヤツ、目敏いから撒くのに苦労するよ。それで」 …どうしよう。 これは本当に告白なのだろうか。 しかし、もしそんなことを言われても、かなでには好きな人がいる。 今だって、大地には悪いが彼が火積だったらよかったのに、なんて考えてしまっている。 …大地の気持ちには、応えられない。 「あの、大地先輩、私」 「―――君は火積が好きかい?」 「えっ………」 大地が口にしたのは、告白の言葉ではなかった。 それどころか、かなでがひた隠しにしてきた本当の気持ち。 こんなことを言われるなんて思わず、かなでは返答に困った。 「え、な…なんで、何を」 しどろもどろに言い逃れようとしているうちに、かなでの顔は真っ赤に染まっていった。 それを見ているうちに、大地の疑念が確信に変わる。 「そうなんだね」 「……………」 俯いたのか、頷いたのかはわからなかった。 「なんで…大地先輩、そんなこと…」 「君の足のケガも、それと関係あるんだね?」 「―――――!」 赤かったかなでの顔から急に血の気が引いてゆき、今度は青くなった。 可哀相なくらい顔に出る子だ、と本人には笑い事ではないのだろうが、大地は少し微笑ましくなってしまった。 「ち…違います…!そんなの…、関係、な…」 「ひなちゃんは、火積に手当てしてほしくてわざとケガをしていた、そうだろう?」 「ち、ちが…」 かなではぶるぶると震えて、瞳に涙を溜めはじめた。 誰にも、火積にさえ気づかれていなかったはずの真実。 それが、なぜ――― 「その気持ち、わからんでもないなぁ」 「………っ!」 飄々とした声に、大地が振り向いた。 …土岐だ。 ついてきていたのか。 「えろうすんまへん。話、聞いてもうた」 ふふっ、と笑って。 土岐はずかずかと二人に近づいてきた。 「…盗み聞きとは随分いい趣味をしているじゃないか、土岐」 「あんたこそ、こないか弱い女の子いじめ泣かして、ええ趣味しとう」 めそめそと泣きはじめたかなでの肩を抱き、囁くように土岐は言う。 「火積くん好いとうのに、アタックする勇気なくて、どうにかして気ぃ引きたかったんやね?」 「っく、ひっく、………」 かなでは泣きながら頷いた。 「俺はわかるで、あんたの気持ち。でもな、あんたの綺麗な体に傷つくのんは、俺も感心せんわ」 はあ、と大地はため息をついた。 悔しいが、ここは土岐の方がうまく執り成してくれそうだ。 「よしよし」 「…ごめんよ、ひなちゃん。君を責め立てるような言い方をしてしまったね」 大地はかなでの頭を撫でながら、小さな子供をあやすように語りかけた。 二人に見守られながら、しばし泣いていたかなでだったが、土岐の一言で泣くのを止め、今度は必死な形相をすることとなる。 「…火積くん、呼んできたろか?」 「―――――!」 「告白したらええやん。したら、あんたの気ぃも晴れるんとちゃう?わざわざケガして、気ぃ引かんでも、あんたなら―――」 「だめ!」 土岐につかみ掛かるようにして、かなでは言った。 あまりの勢いに、二人が息を飲むほど。 「…っ、けど、そうでもせんと」 「嫌われる…」 「え…?」 「そんなこと言ったら、嫌われる!火積くんは、そういう目で私を見ていないもの!私が告白したら、きっと、火積くんは、わた、私を、」 ガタガタと震え出したかなでを見て、大地は「これ以上刺激するのはよくない」と目で土岐に訴えた。 土岐は仕方なく頷く。 「…わかった。小日向ちゃん、落ち着いたら戻ってき。榊くん、行こか」 「…ああ」 俯き立ち尽くすかなでを、心配そうに何度も振り向きながら、二人は室内へと戻っていった。 …2学期。 あれだけ慌ただしかった夏が夢だったかのように、平凡な日常が戻ってきた。 全国大会で優勝した星奏学院オーケストラ部は、方々からちやほやと称賛を浴びてはいたが、それに甘んじていてはいけないという部長の方針から、早くも来年に向けての練習が行われていた。 かつては賑やかだった菩提樹寮も、人数が減ってしまってからは―――もっとも、元に戻っただけなのだが―――静かなもので、時折夏を思い出して寂しくなった住人が、疎らにラウンジに集うだけ。 「…傷が残らなくてよかったな」 ぽつり、と呟いた大地に、響也は答える。 「あの程度なら、な」 「どうだい、寮でのひなちゃんの様子は」 「…なんでそんなことを聞くんだ」 かなでがこの夏、短い期間で足のケガを繰り返していた原因について、真実を知っているのは大地と土岐だけ。 『小日向ちゃんから目ぇ離さんといてな』 そう語った彼も、今では西の地へ帰り。 『いや、でも驚いた。君ならここぞとばかりにひなちゃんの弱みにつけこんで、彼女をモノにしようとするだろうと思ったのにな。火積への告白を勧めるなんて』 『あんたとちごて、俺はフェミニストなんよ』 『…君にその台詞を言われるとはね』 『でも、真面目な話』 その時、土岐はいつもの茶化したような目をしていなかった。 瞳の奥から、大地の中身を見透かすような眼差しで、彼はこう言った。 『小日向ちゃん、俺が病んどった時と同じ目ぇしとう。妙なことにならんよう、しっかり守っとき』 …今でも、あの忠告を思い出すと背筋が寒くなる感覚を覚える。 妙なこと、とは 一体なんだっていうんだ。 パーティーの終盤―――落ち着きを取り戻したかなでから、大地はこう言われた。 『さっき話したことは、誰にも言わないで』 律や響也、かなでに関わるかなでを心配している仲間たちに、本当のことを打ち明け、周りを固めて彼女を守ることが一番安全な方法だと考えていた大地だったが、 何かを脅迫するようなかなでの瞳に、彼女の要求を飲まざるを得なかった。 もうすぐ中間試験――― この時期まで、特にかなでに大きな変化はない。 火積と離れることで、何か起きやしないかとヒヤヒヤしていた大地だったが… あれは夏の魔法。 彼女の魔法は解けたのかもしれない、などと思いはじめていて。 「………。まぁ、少し元気ねー感じではあるけど。あいつ、もともとバカ騒ぎする方でもなかったし」 律も、響也も、ハルも、 そしで大地も。 なんとなく気持ちが晴れないのは、自分の知らないところで膨れ上がっていく闇を、どこかで感知していたからなのかもしれない。 「今日は暑いね」 爽やかな秋晴れ。 残暑はとうに過ぎたというのに、今日の日差しはまるで夏のように強かった。 それはこの夏をいやでも思い起こさせ、どこか切ない気持ちになる。 土曜日の午後、かなで、律、響也、大地、ハルの5人は、屋上でアンサンブル練習を行っていた。 「っち~…。なんだよ、今日ブレザーいらねーじゃん」 響也は顔を真っ赤にしながらブレザーを脱ぐ。 「ええ…、9月上旬並の暑さだそうです」 「………」 暑いので無駄な体力を消耗しまいと黙っていたのかと思っていた。 小休止に入ってから、律は手を拱いたまま一言も発しない。 体力ないんだから、と冷たい飲み物でも買ってこようか―――そう大地が提案しようとした時だった。 「小日向、腕を見せてみろ」 「―――――!」 そのたった一言だけで、かなでの顔色が変わったのは、誰からも見て取れた。 同時に、その場の誰もが、胸の内の黒い予感から目をそらすことができなくなっていた。 本当は――― どこかで、気づいていたのだろう。 (かなでの、) (ひなちゃんの、) (小日向先輩の、) 音が、おかしい 「ブレザーを脱いで、ブラウスをまくれ」 律の命令は容赦なかった。 絶対に言い逃れさせないという意志をこめた眼光が、かなでを攻撃する。 不自然は、誰もが感じていた。 品行方正なハルでさえ、暑さのあまりタイを外して登校し、 学院にいる誰もがブラウスになっているというのに。 かなでだけは、きっちりとブレザー、ブラウスを着たまま。 額は汗ばみ、頬は紅潮していた。 「いや…っ」 かなでは小さく反抗した。 それはもう――― 律の言う通りにできない事情があることを明示していた。 「なぜだ」 律は当然の疑問を放つ。 「腕を見せろ」 「いやっ!」 「………」 「きゃ………!」 響也がすかさずかなでの腕を取り、乱暴に袖をまくった。 ブレザーと、ブラウスの下に隠されていたかなでの腕。 の、傷。 「………!」 ハルが大袈裟に息を吸い込む音が聞こえた。 かなでの腕は、 傷だらけだった。 「う…、」 その瞬間、誰もが口を開くこともできず、ただただ痛ましい腕を凝視していた。 力を失った響也の腕から逃れると、かなではその腕を抱えるようにして静かに泣きはじめた。 「なんて…ことを…」 沈黙を破ったのは、ハルだった。 本来ならば激情にまかせて怒鳴り散らす彼でさえ、 そんな言葉しか発せられずに。 ヴァイオリニストが腕を傷つけることの意味は、 この場所にいる誰もが知っていたから。 最初は、本当に偶然だった。 暑さでフラフラしていた私は、道の段差で躓いてしまった。 咄嗟に手を出すことができなくて、思い切り膝をついてしまった。 暑さに気をつけろ、それは誰からも言われていたことなのに、フラフラするまで休むこともしなかった自分を、すごく責めた。 私はなんてダメなんだろうって。 そして、偶然火積くんと出くわして… 自分にも他人にも厳しい彼に怒られてしまうんじゃないかって、最初はビクビクしてた。 けれど彼は私を責めずに、優しく手当てをしてくれて… 少し前に見たあの光景を思い出した。 雨の夕方。 道端に捨てられさ迷い、ケガをしてしまった子猫に語りかける彼の姿。 私は思った。 私もあんな風に助けてほしい。 救ってほしい。 手を差し延べて、「大丈夫だ」と囁いてほしい。 彼なら、どんな痛みからも私を守ってくれる、きっと。 でも守られるには、彼の優しさに触れるには、傷を、痛みを刻まなければならない。 弱い者を見たら、彼は救わずにはいられないはずだ。 だから、私は自分からケガをした。 前の傷が治ったら、また新しい傷を。 傷のなくなった自分の体が、不安で仕方なかった。 傷を負い、彼に手当てをされるその時間だけが、何よりも幸せな時間だった。 だけど――― あまりにも不自然なそのケガは、周囲の人々までも心配させてしまって。 どこかで、間違ったことをしているとわかっていた私の罪悪感は、日に日に募っていった。 それでもやめられない。 火積くんの優しさに触れられるのは、この夏だけ。彼が仙台に帰ってしまうまでの、短い間だけ。 焦りと、不安と、罪悪感。 私が心休まる時は…、体に傷を負った時だけだった。 彼は仙台に帰った。 これで終わるのだと思った。 大地先輩や土岐さんに私のケガの真相がバレてしまってから、私はよりいっそう罪悪感に苛まれることとなった。 私、何をしているんだろう 彼のいない日常が戻ってきたことの喪失感と、自分への諦観。 多分、私は、 癖になってしまっていた。 自分の体を傷つけると、なぜだかとても安心した。 手当てをしてくれる人は、もうここにはいないのに。 なのに、無性に体を傷つけたくなった。 服から出ているところに傷をつけると、いたずらに周りを心配させるだけ…そんな理性ばかりは働いたくせに。 ヴァイオリンを奏でる大事な腕を、剃刀で傷つけた。 死にたいわけじゃない、だから 少し切るだけの、浅い傷を、たくさん。 「かなで…さ」 泣きじゃくるかなでをどうすることもできなくなった4人は、かなでのクラスメイトの女子に彼女を任せ、菩提樹寮まで送ってもらうよう頼んだ。 やはり男性にはやれることに限界があるということを、こんなに痛感したのは初めてだった。 音楽室に戻った律とハル、そして屋上に残った響也と大地。 できるなら記憶の中に留めておきたかったできごとを、響也はぽつりぽつりと思い起こす。 「中2ん時…結構ひでえいじめにあったんだよな。俺はクラス違ってて、そんなことがあったって知ったのは3年に上がってからだった」 「…ひなちゃんは隠していたのかい?」 「そうだよ。…ったく、あいつはいつも肝心なことは言わねえ」 打ち明けてくれればいくらでも助けてやることはできたのに。 もちろん、何も気づいてやれなかった自分だって責めた。 「3年になって、クラス替えしたことも、俺とクラスが一緒になったこともあって、いじめはなくなって…あいつも吹っ切れたように見せてたけど、本当はただ隠してただけだったんだな」 「だからひなちゃんは…。人に助けを求める方法を知らずに、人に嫌われることを怖がり、自分の中に溜まった不安を、歪んだ形で発散させることしかできなくなった…その時受けた心の傷は、全然癒えてなかった、ってことか…」 「っ…あーっ!どうしたらいいんだよ!」 わしゃわしゃと頭を掻きむしる響也。 「まずは、病院…かな」 「あんたんとこ?」 「違うよ。…ひなちゃんは、体の傷よりも、心の傷の方が深いんだ。だから…」 「………。あいつ…。火積のこと、好きになったわけじゃなくて…。自分を守ってくれそうな相手にすがってたってだけなのか?…それなら、俺たちだって…」 「いや、それは違うだろう」 大地は遠くを眺めながら語った。 「ひなちゃんが恋をしているのは間違いないよ。…火積、あいつは言葉少なで無愛想な奴だけど、他の男の誰よりも本来の男の魅力を持っていることは事実だ。男の目から見たってわかるだろう?ひなちゃんが火積を選んだことには、ちゃんと意味があるのさ」 「………」 「…負けた、な」 互いを慰め合うように、二人は少しだけ笑った。 「火積、火積」 「…八木沢部長」 授業が終わって、教室を出ようとしていた火積。 すると、八木沢が火積の教室の入口からひょっこり顔を出し、手招きをしていた。 「お疲れ様ッス。これから、部室に行こうと…」 「いや、今日は部活は休みだよ」 「…は?そうだったんすか…?」 八木沢は頷いた。 今日は金曜だから、夜遅くまで練習をしていこうと思っていたのだが… 「火積、これから予定はあるかい?」 「えっ?いや、普通に部活行こうとしてたんで、特に何も…」 「明日は?」 「…明日も、練習くらいしか…予定と呼べるもんはないっすけど…」 「それなら、行こう」 「?!」 八木沢は火積の腕を掴むと、行き先も告げずにずんずんと歩き出した。 温厚な彼にあるまじき強引な行動に、火積は戸惑う。 「ちょ、部長、どこに」 「横浜だよ」 「―――横浜?!」 「おい、小日向。客人だぞ」 「………。えっ」 帰宅後、かなでは自室にこもっていた。 剃刀やはさみなど、刃がついているものは全て没収された。 律は、入寮者たちに刃物の管理を徹底するように呼びかけ、買ってきでもしない以外、かなでは一人で刃がついたものを扱えなくなっていた。 かなでは追い詰められたような気持ちになったが… 律は、オケ部の部長だ。かなでの心情よりかなでの腕を優先に考えるのは当たり前のこと。 律に対する嫌悪感は、微塵もなかった。 その代わり、自責の念は膨れ上がっていく。 今、こうしているうちも、傷が癒えていっているのだと考えると、不安で不安で仕方ない。 「………あ、」 そうだ。 ニアに呼ばれていたのだった。 かなでが廊下に出ると、ニアはもういなかった。 「ニア…?」 ニアは確か、「客人だ」と言っていた。 かなではニアを呼びながら、ラウンジの方に歩いていく。 「……ニア」 「小日向さん?」 ラウンジから、声が聞こえた。 この声は… …いや、彼がここにいるはずがない。 そんな考えを一瞬で吹き飛ばされて、かなでは驚いた。 「八木沢さん…?!」 「お久しぶりです」 向かい合ってソファーに座り、二人は話を始めた。 「えっと…。びっくりしました。八木沢さんは、どうしてここに…」 八木沢が来ているということは… そう考えて、かなでは頭を振った。 いや、それはない。ラウンジには、かなでと八木沢の二人しかいない。 「如月くんたちに呼ばれてきたんです」 「え…」 「小日向さんが、苦しんでいると聞いて」 「―――――!」 ―――律たちは、かなでの傷を癒すことに、病院では行えない「治療」を選んだのだった。 …話したんだ。 かなでは俯いた。 できれば、星奏学院の仲間たちにも知られたくなかった自分の心の闇。 まさか、八木沢にまで知られてしまうなんて…! 「落ち着いて下さい、小日向さん。僕は、君を責めたり咎めたりするために来たんじゃないんですよ。火積のことを、知ってもらいたくて来たんです」 火積の名前を出されて、そんなことまで知られていたことに顔が熱くなる。 ちょっぴり、星奏学院の仲間たちを恨んだ。 八木沢は優しい眼差しで、ゆっくりとした口調で語りはじめた。 これまでのこと、如月くんたちから伺いました。 …夏から、ずっと苦しい思いをされてきたのですね。気づくことができなくて、ごめんなさい…。 うちの部員、火積に好意を寄せて下さっていたようで、僕も嬉しいです。 あれは、本当にいい男ですよ。きっと小日向さんも、火積の良さを理解してくれた一人なのだと思います。 あなたは…、今、自分の体を傷つけることで、心の均衡を図っていると聞きました。 でも、小日向さん。火積がそれを知ったら、きっと悲しむでしょう。 なんでそんなことを、とあなたを責める前に、自分を責めるでしょう。自分のせいで、と。 …だからやめなさい、と言っているわけではないのです。事実だから、ただ知っておいてほしいだけなのです。 火積は、自分の体を傷つけることの意味を、誰より理解しています。 あなたもご存知ないはずがない。…火積の眉間には、大きな傷がありますね。 あんな傷、どうしてできたのかご存知ですか? あれは、伊織が不良に絡まれていたところを助け、ビール瓶でつけられた傷なんです。 本当はね、今の医学なら、綺麗に消すことができる傷なんですよ。 けれど火積は、あれを消すことを頑なに拒んだ。それどころか、髪を上げて、わざとあの傷を人目に晒すようにしていますね。 僕は、その理由を聞いたことがあります。そして、形成手術で傷を消すことを勧めたんです。 けれども… 『八木沢部長、こりゃあ俺の弱さと過ちを懺悔する傷だ。消すわけにゃあ、いきません』 火積は言いました。 あの時、力ずくで不良たちを撃退することより、もっといい方法があったはずなのだと。 傷を、ケガを負ったのは火積だけじゃない。伊織に絡んだ彼らも、同じように火積にケガを負わされたのです。 イライラしていて、誰でもいいから八つ当たりをしたかった、なんて言っていました。 伊織を助けたのは、こじつけだと。 他人に八つ当たりした自分の心の弱さと、それにより他人を傷つけた愚行は、後になって火積を苦しめた。 だから、その後悔を忘れないように、傷を残しておくのだと。 …小日向さん、あなたは傷が癒えるのが怖いとおっしゃっていたようですね。 あなたの傷は癒える。 けれど、火積の傷は… おそらく一生、癒えることがないのです。 癒えることがない傷を持つ苦しさを、火積は知っている。 だから、小日向さんまで…その苦しみに苛まれることを知ったら、あれはきっと悲しむ。 あなたは知っているんでしょう。 火積が、傷ついた者を救わずにはいられない、優しい男だということを… 「……………」 八木沢の話を聞きながら、かなではぽろぽろと涙を零していた。 かなでが知らなかった、火積の話。 それを聞いて、自分で傷つけた腕が、じくじくと痛む気がした。 「あなたが自分で自分を傷つけずとも、火積はあなたを守ると思います。それこそ、傷などつけられないくらいにね」 「………」 火積は、元町公園のベンチに座っていた。 ここへ来るのは、あと一年は先のことだと思っていたのに。 『…少し、一人になってきてもいいっすか』 横浜へ来る新幹線の中で、火積は八木沢に話を聞いていた。 なぜいきなり横浜へ行くことになったのか。…かなでに関する話も。 「自分を責めるんじゃないよ」と前置きして、八木沢は話しはじめた。 自分を責めるな―――そう言われても、火積は自分を責めずにはいられなかった。 そうだ。 短期間であれだけケガをしていたかなでを、火積はただ危なっかしい、子供みたいな奴だ、くらいにしか思わなかった。 しかも、今なんて自分で自分を傷つけているなんて話じゃないか。 もっと何か方法があったんじゃないか。できることがあったんじゃないか。 自分に手当てされたいがためにケガをしていただなんて―――気づきもしなかった。 どうしてこんなに鈍いんだ。…女っ気のなさに嫌気がさした。 しかし八木沢の手前、酷く落ち込む姿も見せられない。 ただ一人にしてほしいと、火積はここへやってきた。 八木沢の計らいで、まずワンクッション置くということで、彼がかなでと話してくれている。 それが終わったら、かなでと二人で話をしてほしいと言われたが… 正直、彼女と会っても何を話したらいいのかわからない。 「火積」 「っ!」 八木沢の声だった。 …話は終わったのだ。 まだどうしたらいいのか考えはまとまっていなかったのに、ずいぶん時間がたっていらたしい。 振り向くと、八木沢は俯き加減なかなでを連れていた。 「火積」 八木沢は火積に近づくと、そっと耳打ちした。 「怒ったりしてはいけないよ」 じゃあ頼むね、とかなでだけその場に残し、八木沢は去っていった。 「………」 「………」 「………おう」 火積の口から出たのはそんな言葉だった。 夏の間も、そんなに騒がしい方ではなかったが。おとなしくも、いつも花のような愛らしい笑顔を見せていた彼女の顔が、今は強張っていた。 それに、なんだか更に痩せた気がする。 こいつ、こんなに細くて小さかったか、と火積は改めてかなでを見つめた。 「…た、立ちっぱなしもナンだろ。そこ、座れよ」 近くのベンチを指して歩きだそうとすると、かなではようやく口を開いた。 「ごめんなさい」 「あ…?」 「ごめんなさい…。私のせいで…私が…、みんなに心配をかけて…火積くんまで…」 「…っ、いや…」 思い詰めたようなかなでの声に、火積は振り返る。 力をなくしたような泣き顔が、そこにあった。 どうしよう。どうしたらいい。 泣いている女の子を慰めるのなんて、妹を慰めた時以来だ。 それも、小さい頃の話で… 「う…、うっ…」 かける言葉も見つからない。 焦っているうちに、火積の体は無意識に動いていた。 「泣くな」 「………っ」 「泣くんじゃねえ」 震える小さな体を抱きしめて、火積は低く小さな声で言った。 驚いてかなでの涙は止まる。 かなでの体は、火積の大きな体にすっぽりと包まれて。 まるで、あの日の子猫のよう。 「(………あったかい)」 あの日の子猫も、こんな気持ちだったのだろうか。 火積はなんとかかなでを泣き止ませ、二人でベンチに座った。 それから、ゆっくりと、かなでの言葉を引き出す。 急に核心に迫ろうとしたらかなでをまた興奮させて泣かせてしまうかもしれない。だから、少しずつ少しずつ、じれったいほどに時間をかけた。 何か変なことを言ったらどうしよう、と、今までにないほど気を遣ったせいもあり、正直イライラしていたが、そこは根気のいい火積のこと。ランニングをするように着実に、ゴール…かなでの本当の気持ちにたどり着いていった。 かなではというと、今まで生きてきた中で初めて、というくらいに安らぎを得ていた。 彼とはこんなに長い時間二人きりで話したことがなかったから、こんなに話せる人だとは知らなかった。 もちろん、それは彼が気を遣ってくれているからだということもわかっている。それでも、思いがけず再会できた想い人の前で、今は思い切り彼に甘えたいという気持ちの方が強かった。 かなでは、今までのこと… いじめのことや、星奏学院へ来たきっかけ、雨の日に火積を見かけたこと、なぜケガをしたのか… 誰にも話すことのなかった本当の気持ちを、全て彼に打ち明けた。 火積は、時折驚いた顔を見せながら、それでも変に口を挟むことなく、相槌を打って聞いていた。 「八木沢さんに聞いちゃったかもしれないけど…私は…火積くんが…」 「……………」 火積は押し黙った。 全てにおいて急展開で、深く状況を理解する時間も与えられていない中でのかなでの告白を、受け入れることはできなかった。 しかし、かなでの気持ちを拒んだら、彼女はまた… 「………。すまねえ。今は、その言葉聞かされても、俺にはどうしたらいいのかわからねえ…」 「………」 火積は正直に話した。 ここで、この場を取り繕うことだけを目的に、かなでの気持ちを受け入れても、 自分のためにはもちろん、かなでのためにもならない…。 「……………」 かなでは黙り込んだ。 まさか今日火積と会って、こんな話をすることになるとは思っていなかったし、ましてや告白することになるなんて思っていなかった。 だから、うまくいくなんて思っちゃいなかったが―――やはりこういう返答をもらってしまうと、堪える。 「でも俺は、あんたが嫌いってわけじゃあ、ない」 「火積くん…」 「だから…。もしあんたがこれからまた、寂しくなったり…辛くなったり、一人じゃどうしようもなくなった時は、すぐ俺に連絡してくれていい」 火積は少し赤くなって、かなでを見つめた。 「今すぐ返事できないってだけだからよ…。まだ俺自身の考えもまとまってねえから…。だから、これからあんたと連絡取り合ってるうちに…もしかしたらってことも…」 自分で話していて恥ずかしくなって、目をそらす。 しかし、もしかしたらかなでを泣かせているかもしれないと思い、慌ててかなでに視線を戻した。 「…ありがとう、火積くん…」 かなでは泣いてなんかいなかった。 むしろ嬉しそうに目を輝かせている。 火積も、かなでにつられたのか、安心したからか、柔らかく微笑む。 「…ただ、一つだけ俺と約束してくれ。これからは、自分の体を自分で傷つけるなんてやめろ」 「…うん」 「もしやりそうになっちまったら俺に連絡しろ。いいな?」 「…うん」 「こんな綺麗な肌してんだ。…傷なんかつけたら、もったいねえだろ」 無意識にかなでの手を取る。 かなでがびくりと反応して、赤くなったのを見て、火積は自分のしたことに気づいた。 それから慌てて手を離す。 「その…、なんだ…。そういうことだ!」 気恥ずかしさを吹き飛ばすように、火積は叫ぶようにしてそう言った。 「今日は絶好の昼寝日和だな…」 春の日のラウンジにて、ニアはソファーに寝転がりながら庭を見つめていた。 昨日は響也とハルがマスクをしながら恨めしげに花粉の厄介さについて語っていたっけ。 そういえば小日向は…とまで考えて、去年の夏から今までのことを思い返す。 まあ、なんだ、いろいろあったな、と。 もう心配することは何もないし、よし、昼寝をするか、とニアは目を閉じようとした。 ニアの瞼が閉じる瞬間、その僅かな視界に入ってきたものは――― かなでの白く細い腕と、無骨な日焼けした腕が繋がれて、こちらへ向かってくる光景。 楽しそうな笑い声と、「あんまりはしゃぐな」という牽制の、でも嬉しそうな男の声。 「(今日は、暖かすぎるほど暖かいからな…)」 くるり、と寝返りを打ち、 ニアは眠りに落ちていった。 恋人たちの幸せそうな話し声を子守唄にして。 END |