A clematis

「八木沢さんのお菓子、本当においしい!」

仲直りして、告白されて。
八木沢とかなでは、以前のように昼の菩提樹寮で、仲良く和菓子を食べていた。

和菓子なんて、自分から食べに行ったり、買いに行くことはないから、
初めて見る・食べるものばかり。
それなのに、和菓子屋本場の味を味わうことができるのだから、幸せだなぁ、とつくづく思う。

「八木沢さんのお家って、店内でも食べられるんですか?」

「ええ。うちは製造と販売が主なので、座席数は少ないんですけれどね。店内で召し上がりたいお客様にも、お持ち帰りして頂くことが多くて…」

「私も、八木沢さんのお家に和菓子食べにいきたいな…」

「ええ、喜んで。僕の家族も、きっとあなたを歓迎しますよ。………あっ」

まるで家族に紹介する、みたいな流れになってしまったことに気づき、二人とも赤面する。

「そ…そうだ。実は、うちの和菓子、横浜にあるお店で食べることもできるんです」

「え…っ?」

それは聞いていない。
横浜に支店があるということなのだろうか?

「支店があるんですか?」

「いいえ、昔から縁のあるお家が、最近お店を出されて。そこで、うちの和菓子をデザートとしてメニューに出して頂いてるんです」

「へえ…!すごいですね」

「和菓子は仙台から直送しているので、うちの味そのもので出せるんですよ」

「ちなみに、そのお店って…」

「ああ!よろしければ、二人で行ってみますか?」

「………!」

目をキラキラさせているかなでに微笑んで、八木沢は席を外した。
電話しにいったらしい。

「(最近は二人で名所巡りすることもなくなっちゃったからなぁ…。ま、ファイナルが近いから仕方ないけど…)」

だからこそ、二人で目的をもって出かけることは嬉しい。
しかも、八木沢本家の和菓子が食べられるなんて。

「小日向さん」

電話を終えたらしい八木沢が、かなでを呼んだ。

「は、はい!」

「今、店の方に連絡してみました。急になってしまうんですが、今夜…一緒に行きませんか?8時からでしたら、席が空いているそうです」

「本当ですか?!もちろん行きます行きます!!!」

「ただ…。夜からの外出ですから。如月くんにきちんと断ってからでないと、いけませんね」

「えっ。…あ、いいですよ。夜出かけることなんて、今までもあったし…」

それに、律に堂々と「今からデートしてきます」なんて断りを入れるなんて恥ずかしすぎる。
…律のことだから、「デートしにいく」ではなく「二人で出かけるのか、珍しいな」とボケをかましてくれそうな気もするが。

「大事な部員を連れ出すのですから、部長に断りを入れるのは当然です。何かあったら困りますし。如月くんには、僕の方から…」

「っ、何かあるはずがありませんッ!」

「………?」

「だって…。何かあったら、絶対に八木沢さんが守ってくれるもん…」

顔を赤らめ、もじもじしながらそう言うと、八木沢も熱が伝染したかのように赤くなる。

「そ、それは…。はい、小日向さんは…僕が必ず守ります…。それにしても、あなたは…本当に、可愛らしいことを言ってくれますね…」

「八木沢さん…」

「あっちーな!」

「こら、如月弟。ボロ屋敷の扉を足で開けるな、これ以上ボロボロにしてどうする」

「!」

「!」

二人は、ぱっ、と離れた。
ニアと響也が帰ってきたのだ。

「…ん?ああ、八木沢と小日向か。前で如月弟と会ってな」

「そ…そうなんだ…」

「もー汗だくだぜ。ギャッツビーの汗拭きシート、切らしちまったんだよなー」

響也は早々と冷蔵庫を開けて麦茶を取り出している。

「………」

「………」

「………ふむ」

ニアは八木沢とかなでを交互に見やって、ふふんと笑った。

「おかしいな、ここには涼みに来たはずなのに。なんだか、外より暑いぞ」

暑い暑い、とニアはわざとらしく顔を仰ぎながらラウンジを出ていった。

「………も、もう。相変わらずニアはからかうの好きなんだから…。こ、ごめんなさい、八木沢さん」

「い、いいえ。本来ならば、ああいった物言いは軽く受け流せばいいのでしょうけれど…。いかんせん、慣れていなくて」

つい真に受けてしまうんです、と八木沢はまだ顔を赤くしている。
受け流すことができる八木沢は八木沢じゃない、とかなでは思った。

「とりあえず…。やはり何も報告せずに寮を出ていくのは気が引けます。如月くんには、僕からこっそり断りを入れておきますから。…7時半に、寮の前で待ち合わせしましょう」

ね、と微笑まれて、かなでは頷いた。

 

 

 

「小日向、入るぞ」

「うん」

午後6時。
そろそろ用意を始めよう、とかなでは部屋にニアを呼んだ。

「あのね」

「デートなんだろう。いいぞ、今日はどういじってやろう」

「ま…まだ何も言ってないのに…」

「あの雰囲気を見ればわかるさ。どこへ行くのかだけ聞いておこうか」

私もすっかり、君専属のスタイリストが板についたな、とニアは笑った。

「うう…。今日はね、八木沢さんの家の和菓子をデザートとして出してるってお店に行くの」

「八木沢の家の…?………ああ」

「えっ?!ニア、知ってるの?!」

ニアは意味ありげににやにや笑っている。

「もちろん、知っているぞ。君は少々、驚くかもしれんな。まぁ、八木沢はきっと、そんな君の反応を予測していないと思うが…」

「えっ!どういうお店なのか教えてよ!」

「こらこら、予備知識があったら驚きが薄れてしまうだろう。世の中には、知っておいた方がいいことと、知らない方がいいことがあるものだ」

「………わかった。じゃあ、お願いしていい?」

「任せろ。これから行く店にぴったりの装いに仕立ててやろう」

ニアはかなでのクローゼットをひっかきまわし始めた。

 

 

 

「(7時10分か…)」

腕時計を確認して、それから寮の方を見遣る。
あまりに楽しみにしていたせいか、少し早く出てきてしまった。

かなではまだ来ないだろう。
でも、彼女を待つ時間は苦ではない。むしろ好きだ。

と、寮の方からぱたぱたと足音が聞こえて、八木沢は振り向いた。

「あ………」

「す、すみません八木沢さん、待たせちゃいましたか?」

八木沢は一瞬、かなでに見とれてしまい、
すぐに返事をすることができなかった。

「(可愛いな…小日向さん)」

「………?」

「あっ!…す、すみません。大丈夫ですよ、ほら、まだ7時15分です」

「楽しみで、つい早く出てきちゃいました。まだ八木沢さんもいないかなって思ってたんですけど」

「ええ、僕もです。…小日向さん、今日はまた、いちだんと、その…」

「はい?」

かなでは、全体的に落ち着いた色のコーディネートで、和風の小物を身につけている。
普段の彼女ももちろん可愛らしいのだが、こうした大人っぽい格好だと、また違った魅力がある。

「?」という顔で見つめられると、胸が高鳴ってしまう。

「(ぼ、僕は…!女性をじろじろと見つめて、なにを…)」

「八木沢さん?」

「っ………!す、すみません。ここで時間を潰すわけにはいきませんね。行きましょうか」

「はいっ!」

 

「さあ、着きましたよ。僕はオーナーの方に挨拶していきますので、小日向さんは先に席についていて大丈夫ですよ。予約してありますから、店員さんに…」

「……………」

和菓子をデザートとして出している、と聞いたので、
かなでは喫茶店のようなお店だと想像していたのだが…

「(懐石………料理………?)」

さあ、とかなでの顔から血の気が引いた。

懐 石 料 理 ?

そんな店、行ったこともない。
テレビで政治家が会合する場所だとしか知らない。

どうしよう。高校生が払えるような金額じゃないんじゃ…

「小日向さん?どうしました?」

「あ…あの…」

「いらっしゃいませ」

店の入口で狼狽していたかなでの背後から、優しげな声が聞こえてきた。
八木沢は、途端に表情を明るくする。

「(え………?)」

まだお店の中に入っていないのに。
かなでは振り向いた。

「もし、場所がわからなかったら困ると思ってね。外で待っていたんだよ」

「柚木さん!」

「(え?え?)」

八木沢の知り合いなのだろうか。
優雅な物腰、端正な顔立ち。
その青年は、美しく微笑んだ。

「すみません。今日は突然、お伺いしたいなどと」

「いいんだよ。本家の方には是非、一度来て頂きたいと思っていたからね」

「オーナー直々に出迎えて頂いて、恐縮です」

…オーナー?
ではまさか、彼が…

「初めまして」

「!」

突然声をかけられて、かなではびくりと跳ね上がった。

「オーナーの柚木梓馬です。君は、雪広くんの…?」

目配せされて、八木沢は赤くなりながら慌てる。

「あ、あの、彼女は、………小日向、かなでさんです…」

柚木はいろいろと悟ってくれたのか、空気を読んで「小日向さんだね」とだけ言った。

「こ、小日向かなでです。よろしくお願いします」

「よろしくね。さ、入って入って」

「あ、」

一瞬躊躇ったかなでを見て、柚木は大丈夫、と言う。

「うちはカジュアル懐石でね。若い人にも気軽に入ってもらえるお店なんだよ。だから、心配しなくて大丈夫。高校生からお金を巻き上げることはないさ」

「あ…」

恥ずかしい…。
心の内を読まれてしまった。

「それに、雪広くんは大事なお取引先の御曹司だからね。今日はごちそうするよ」

「で、でも、柚木さん」

「その代わり、新作に期待させてもらうよ?」

八木沢は、はあ、と頭を掻いて照れた。

 

柚木に先導され、店内に入る。
かなでも八木沢も、店内の様子をみてほう、と感嘆のため息を漏らしてしまった。

柚木の言った通り、店内には若いお客が多かった。
服装もかしこまったものではなく、カジュアルな服を着ている人も多い。

通路には砂利が敷き詰められ、奥には小さな滝のようなものがあり、ししおどしまでついていて、まさに「和」の装い。
壁にかけられた漆器も、やはりいいものなのだろう。赤と黒の漆器が、バランスよく飾られていた。
気分の落ち着く暗めの店内に、ぽつぽつと暖かい照明が灯っている。
座席は、お座敷とテーブル席、両方あるようだ。

店内に入って一番に目をひかれたのは、大きな活け花。
派手でいて、どこか慎ましい感じのする、素人から見ても素晴らしいと思える一品だった。

「柚木さんのご実家は華道宗家なんです。この活け花は、柚木さんが一日一日、オーナー手ずから活けていらっしゃるそうですよ」

「へぇ…。す、すごいですね…」

もう、それしか言えない。

「席にご案内するね。………ちょっと」

「あ、はい!」

柚木はバックを覗き込んで、手招きをした。
中から女性の声がした。

「いらっしゃいませー!カジュアル懐石、『ゆずのは』にようこそ!」

「?!」

バックから飛び出してきた女性店員は、元気な声でそう言った。
…元気な接客をするのはいいと思うが、この店の雰囲気にはあまり合わないような気がする…。

「あ………」

虚を突かれたようなかなでと八木沢の顔を交互に見て、女性店員はおずおずと柚木を見遣った。

「……………」

柚木は、さきほどと変わらぬ笑顔を保っている。
…なのに、背筋が寒くなったのはなぜだろう。女性店員に至っては、なんだか冷や汗をかいているように見えた。

「あ~…、コホン。ご案内いたしますっ♪」

「お願いします」

女性店員は気を取り直したようにかなでたちを案内した。
柚木も後ろからついてくる。

女性店員は和服を着ているが、やはりどこかカジュアルな雰囲気を出しているのか、堅苦しい印象は受けない。
赤い着物と、まとめあげられた髪に刺さる可愛い簪。
かなでは、いいなぁ、可愛いなぁ、と思いながら見ていた。

「では、おしぼりをお持ちいたしますので、少々お待ちくださ~い」

女性店員はとたとたとバックへ戻っていった。
…着物に慣れていないのか、微妙に転びそうになっているが…大丈夫だろうか。

「…今のは、僕の知人でね。本業の傍ら、たまに店の手伝いに来てもらっているんだ。本当にたまにしか来ないものだから、まだあまり接客に慣れていなくてね。大目に見てあげてほしいな」

「そ、そうなんですか…」

「で、でも。なんていうか、お元気で…と、とても素敵だと思いますっ!」

かなでは思わずフォローしてしまった。
おや、と柚木は目を見張る。

「…君は、彼女と馬が合うかもしれないね。よかったら仲良くしてあげて」

「ウマ…?は、はい!」

柚木はメニューを広げると、八木沢とかなで、一人ずつに見せる。
「このコースの中から、好きなものを選んでね。前菜から順に運んでくるから。もちろん、最後は八木沢和菓子店の最高級デザートをお持ちするよ」

「ふふっ、楽しみ~♪」

そんなかなでの様子を見て、八木沢も微笑む。

「それじゃあ、ごゆっくり。失礼いたします」

優雅に一礼して、柚木はバックに戻っていった。

「素敵なお店ですね!私、こんなお店来たことないです!」

「ええ、本当に。僕も実際に来たのは初めてですが、想像以上でした」

薄暗い照明の中で合わせる互いの顔は、なんだかいつもと違うような気がした。
まさかこんないい店で食事することができるとは。

八木沢とかなでは、ただ見つめ合ったまま、互いにもじもじしていた。

「あの…。お、オーナーの…柚木さん。オーナーっていうくらいだから、もっと歳のいった人を想像してたんですけど、すごく若い方でびっくりしちゃいました」

「そうでしょうね。柚木さんは、柚木家の三男なんですが、とても優秀な方で。25歳の若さで、この店の全てを任されたと聞いています」

「へえ…!じゃあ、本当にすごい方なんですね」

「おしぼりで~す」

女性店員がやってきて、二人におしぼりを手渡してくる。

「あちゃちゃ!………あ、すみません」

「………」

八木沢もかなでも、あからさまに慣れていない彼女の姿を見て、悪いとは思いつつくちもとをむずむずさせていた。

気を取り直したように、彼女は言った。

「えっと…八木沢さん?って、柚木せんぱ…オーナーの、お知り合いなんですよね?」

「ええ、こちらのお店のデザートに、うちの和菓子を出させて頂いてます」

「えっ?!そうなんですか?!わ、私、柚子あんの水まんじゅうが大好きで!おいしいですよね、あれ!」

「ふふ、ありがとうございます。…失礼ですが、お名前は?」

「あっ。私、日野香穂子といいます。柚子せんぱ…オーナーは、高校時代の先輩で」

「………」

かなでは、「日野香穂子」という名前を聞いて、ひっかかりを感じた。どこかで聞いたような…

「そういえば…。柚木さんは、星奏学院出身だと聞いたことがあるんですが」

「あっ!よく知ってるね、もしかして君も…」

「あ、いえ。僕は仙台の方の学校なんです。彼女は、星奏学院に在学中なんですよ」

八木沢から手を差し出されて、かなでは言った。

「あ、あの。小日向かなで…です。よろしくお願いします…」

「日野香穂子です!こちらこそよろしくね。そっかー、星奏学院なんだ!普通科?音楽科?」

「音楽科…です」

「音楽科なんだ!音楽科の夏の制服、可愛いよね~♪」

「思わぬところでOGとお会いできて、よかったですね、小日向さん」

「はい!」

「………」

香穂子は八木沢とかなでを交互に見て、にやりと笑って言った。

「…二人は、恋人同士?」

「「えっ!」」

思わずハモってしまった。
それから目が合ってしまい、二人とも赤くなって俯く。
香穂子はやっぱりねー、と笑った。

「お店に入ってきた時にね。お似合いだなーって思ったんだ!」

「………」

「………」

「………日野さん?」

「?!」

優しげなのに、どこか怒気を含んだような声がして、三人は声の先に注目する。

「柚木せんぱ…オーナー………」

「お話するのもいいけど、先にご注文を、………ね?」

「は…はひ…」

香穂子は冷や汗をかきながらハンディーを取り出した。

「小日向さん、好きなものを頼んで下さい」

「えっ!い、いいんですか?」

八木沢は微笑んで頷く。
食べられないものは?と聞いたりしながら、かなでは注文を決めた。

 

「…仕事なんだから、しっかりやってほしいね」

「…すみません」

香穂子は、バックで柚木に怒られていた。

「手伝いたいと言ったのはお前だろう?俺の知人にならまだしも、他のお客の目だってあるんだ」

「すみません…。だって、星奏学院だって言ってたから…つい懐かしくなって、話したくなっちゃって…」

「気持ちはわからないでもないけれど、仕事中はしっかりやれ。そんなに雑談したいなら、連絡先でも聞いて店の外で話すんだな」

それだけ言って、柚木は店内の見回りに行ってしまった。

「………」

がっくりと肩を落とし、そして

にやり

香穂子は笑った。

「(あ~、やっぱり仕事中の柚木先輩はかっこいいなぁ♪あの厳しい物言いがたまらないんだよね~♪)」

香穂子が本業の傍ら柚木の店を手伝いにきているのは、80%がそんな理由だった。
もちろん、半端な仕事をしたら彼の店を潰しかねない。そこらへんはしっかりやっているつもりだが、
仕事の合間で、こうやって小さな幸せを噛み締める。

「(そーよ。別に不純な動機だけじゃないもん。集客もしてるしー)」

実際、香穂子に会いたいがためにこの店に通う客も多い。
一方は一度接客をしてから気に入ってくれた客と、もう一方は―――

 

「お待たせいたしましたー」

「わあ♪」

「おいしそうですね!」

前菜から、既に期待大だ。
かなでも八木沢も、早く食べたい、と言わんばかりに料理を眺めた。

「どうぞ、ごゆっくり!」

「ありがとうございます。…じゃあ小日向さん、頂きましょうか」

一緒にきたジュースのグラスを掲げ、八木沢は言った。

「はい!…えっと」

「そうですね。…では、全国優勝の前祝いで」

「えっ!」

「ここで乾杯したからには、…小日向さん。負けられませんよ?」

「………はい!」

かなでは、たまに出る八木沢のこういった厳しめの言葉も好きだった。
優しいだけじゃない、男の中の男。

「「乾杯!」」

 

その後、続々と運ばれてくる料理も、どれも見た目・味共に最高級で。
最初は緊張していた二人も、だんだんと顔を綻ばせていった。

「………うん、よかった。二人とも、気に入ってくれたみたいだね」

楽しそうな二人を見て、柚木は満足げに微笑んだ。

「ね。楽しそうでよかった。可愛いですよね、あの二人。初々しくて、ついからかってみたくなっちゃう」

「…お前がからかう側に回るなんて、随分と成長したじゃないか、香穂子」

「柚木先輩は、相変わらずですよね…」

「ふうん。そんなこと言うんだ。じゃあ、今日は意地悪五割増し、時給五割減だな」

「な、なんだってー!横暴です、オーナー!」

 

「八木沢さん、私思ったんですけど」

「なんでしょうか?」

次はいよいよデザートがくる。
それを待つ間、二人は話していた。

「日野さん…って。オーナーとは、ただの先輩後輩の関係じゃないですよね…?」

「………?それは、どういう…?」

「………」

八木沢の言葉を受けて、かなではきょとんとした。
それから、くすくすと笑う。

「八木沢さんって…。私が相談した時は、僕の勘はよく当たるんですよー、なんて言ってたのに、こういうことには勘が働かないんですね?」

「え…?………あっ」

言われて、ようやく気づいたようだ。
八木沢は照れて赤くなる。

「小日向さん…。からかわないで下さい。僕は…その」

「からかってるわけじゃありませんよー」

「…日野さんは、きっと柚木さんの大切な人なんでしょうね。信頼し合っていることは、僕にもわかりましたから。でもその先は、きっと女性の勘、というものではないでしょうか」

「そうかなー?…でも、いいですね。彼氏のお店を、彼女が手伝う。女の子からしたら、理想だなぁ、そういうの」

言ってから、かなでははっとする。

「私も、いつかは…」

「小日向さん…」

あなたの隣で、あなたのお店のお手伝いをしていいですか?
その先は、どうしても照れてしまって、言うことができなかった。

八木沢もかなでの言いたいことがわかったのか、顔を赤くしたままかなでを見つめている。

「お待たせしました。八木沢和菓子店直送、水まんじゅうの盛り合わせと梅ゼリーでございます。特製シロップをかけて、お召し上がり下さい」

デザートを持ってきてくれたのは、柚木だった。

「わあ…」

やっと来た、とかなでは目を輝かせている。

「デザートに関しては、当店ではほとんど手を加えていません。どうぞ、本場の味をお召し上がり下さい」

デザートを並べてくれる柚木に、八木沢は言った。

「デザートを二品出してくれるお店も珍しいですよね?」

「ふふ、実はね。最初は梅ゼリーだけだったんだ。けれど、お客様から『あの和菓子のデザートをもっと食べたい』という声が多くて、水まんじゅうも添えることにしたんだよ」

「そ…そうだったんですか…?!」

「満腹のお客様でも、このデザートだけはつるりといけてしまうみたいでね。大好評なんだよ」

「すごいですね、八木沢さん!」

「ええ…!父に話したら、きっと大喜びすると思います…!」

「じゃあ、最後までゆっくりしていってね」

柚木に会釈してから、改めてデザートに向き直る。

「いただきます!………おいし~♪」

「ああ、確かにうちの店そのものの味だ。なんだか安心しますね」

足りなそ~、と言いながら、まるでほっぺたを落としてしまいそうに顔を綻ばせているかなでを見て、八木沢は言った。

「…いつか、僕が和菓子を作る隣に、あなたがいてくれたら…。そんな夢を見ている僕は、おかしいでしょうか…?」

「………八木沢さん。私も同じ夢、見てもいいですか?」

かなでの返事に、八木沢は安心したような、泣き出してしまいそうな顔をする。
こんなに、嬉しさと幸せで胸がいっぱいになったことが、今まであっただろうか。

「あなたが隣にいてくれたら、僕は今よりもっとたくさんの和菓子が作れてしまいそうです。あなたへの想いはほんのり甘くて、極上のお菓子みたいで………って、僕は何を言っているんでしょう」

上がりすぎですね、と八木沢は首をさする。
彼が最大限までに照れた時にだけ現れる、クセ。

「………。なんだか、最後のひとくちを食べちゃうのがもったいない気がします」

かなでの器には、梅ゼリーがひとくちぶん残っている。
残りのシロップを全部使える、一番おいしいところ。

「そうですね。…僕もちょうど、ひとくちぶん残っている。…せーの、で一緒に召し上がりませんか?」

八木沢の申し出に、それはいい!と頷くかなで。
だが、ちょっとだけ考え込む。

「あの。ちょうどひとくちぶん残ってるから…。お互いに、食べさせ合いませんか…?」

「えっ…」

お互い、首まで赤く染まっている。

「私が使ったスプーンで食べさせるなんて、はしたないでしょうか…」

おずおずと、不安げな瞳で問う。
八木沢は、首を振った。

「あなたがよろしければ…。僕に、食べさせて下さい」

「………!は、はい…!」

ひとかけらの梅ゼリーに、たっぷりとシロップを絡ませて。
ぎこちなく開けた八木沢のくちもとに、ゆっくり運んだ。

「………。今まで生きてきた中で、一番おいしいものを食べたような気がします。…なんて、自分の家の菓子なのに、自画自賛でしょうか…」

次は僕の番ですね、と八木沢はスプーンを持った。

 

「な…なに、あの子たち…。超カワイイ…!」

香穂子はバックののれんの隙間からかなでたちを眺め、涙目になっていた。

「ふふ。俺たちにもあんな時代があったね」

「(………あったっけ)」

「…なかったかな。じゃあ、今から彼らの真似でも、する?」

ぐい、と肩を抱き寄せられて、香穂子は大きく頷いた。

「します!」

「…仕事中にそんなことするわけないだろ。バカ」

「………」

 

「ごちそうさまでした」

「ご満足頂けたかな」

気がつけば、時間は9時。
デザートを食べた後、かなでたちは店を後にしていた。
店の入口で、かなでたち四人は話していた。

「もう、本当に素敵でした!お料理も、お店も!」

かなでは興奮気味に語った。

「本当に…。よくして頂いて。今度、実家の方からお礼の品をお贈りしますね」

「いいんだよ、気にしないで。…これからもよろしくお願いします」

「こちらこそ。仙台にいらした際は、うちのお店に寄って下さいね。家族一丸となっておもてなしします。…是非、お二人で」

八木沢が言うと、柚木と香穂子が顔を見合わせた。
それから、香穂子は照れたように笑い、柚木はいつものように微笑む。

「それはもう。彼女はすっかり、君のお店のファンだからね」

「あっ!よ、よかったら。番号、交換しない?」

香穂子はかなでを覗き込んだ。

「えっ!…い、いいんですか…?」

「ぜひぜひ~!私、近くに住んでるから。今度遊ぼ♪」

年上のお姉さんに「遊ぼう」なんて言われたのは初めてだ。
かなでは喜んで連絡先を交換した。

「では、僕たちはこれで。今日は、本当にありがとうございました」

「ありがとうございました!おいしかったです!」

何度も振り返りながら帰っていく二人を見送って、柚木は言った。

「…そういえば。雪広くんは至誠館の子なのに、どうしてあの子と付き合ってるんだろうな」

「しせいかん…?なんですか、それ」

「…お前、本気で言ってるの?」

「しせいかん…?しせいかん、しせいかん、………あ」

ついこの間の、全国学生音楽コンクール。
香穂子たちは、かつての仲間たちと一緒に、鑑賞に行ったのだ。

その時、予選決定戦まで勝ち残った高校―――至誠館。
あと一校は―――

「そうだ。至誠館…八木沢くんは、至誠館の出場メンバーだったんですね…」

「…そういえば、お前は決定戦の演奏が聞けなかったんだったか。…ちなみに、あの小日向さんという子は、至誠館を負かせた―――星奏学院の出場メンバーだぞ」

「……………えっ」

そうだったんですか?!と、香穂子は大袈裟に驚いた。
あの日、香穂子は本業が入っていたため、決定戦の演奏を聞くことなく会場を去ってしまったのだった。

「そうだ…。星奏学院の演奏って、ちっとも聞けなかったんだよなぁ…」

「午前の部も遅刻してきたからな、お前は。OG失格だな」

「うう…すみません…。ていうか!柚木先輩、あの子のこと知ってるそぶりなんて全然見せなかったじゃないですか!」

「雪広くんは敗戦校のメンバーだぞ。易々と話題に出せるか」

「あ、そっか…。じゃあ、あの二人はライバル校の生徒同士なのに付き合ってるってこと?」

「そうなるな」

「………なにそれ。なにそれ!すっごく萌えるんですけどおおおおお!」

かつての記憶を取り戻したのか、香穂子はやたら熱くなっている。

「ほら、さっさと仕事に戻るよ。今日はラストまでだろう?」

「はい!あ、えっと…今日は…」

「もちろん。話の続きは、家で聞くよ?」

 

 

 

「………」

「………」

菩提樹寮に到着するまで、二人の間に会話はなかった。
話したいことがありすぎて、何から話したらいいのかわからなかったから。

でも、気まずいわけじゃない。
目が合うと、照れ隠しで思わず笑ってしまい。
何か話そうとすると、タイミングが被る。そしてまた、照れ笑い。
それの繰り返しだった。

 

「………つきました、ね」

長かった沈黙を破ったのは、八木沢だった。
かなでは立ち止まる。

「………終わってほしく、ないです」

今のこの瞬間が、とぽつりと呟くかなで。
八木沢は、そんなかなでの手を取った。
触れられたことに気づいて、かなでははっと八木沢を見上げる。

「…今日一日、ずっとあなたに言いたかったことがあります」

「えっ…」

一体なんだろう。
八木沢は、口を開いてはつぐみ、を繰り返して、なかなか言い出さない。
が、深呼吸の後、ようやくその言葉を聞くことができた。

「…今日のあなたは、特別…きれいで、可愛かった。もちろん、僕は毎日あなたのことを可愛い方だと思っています。けれど、今日はいちだんと…」

「………!」

おしゃれをしたことについて言ってくれているのだとわかり、かなでは驚いた。
八木沢は、きっとおしゃれしたことになど気づいていない…というより、なんとも思っていないと思い込んでいたから。

「本当は…。今日、ここであなたと待ち合わせした時に言いたかった。それなのに、どうしても照れ臭くて、言葉にできなくて…」

はあ、と胸を撫で下ろして、八木沢は続けた。

「今日が終わる前に、伝えられてよかった」

「あっ…ありがとう…ございます…」

どきどきしてしまって、それしか返すことができなかった。
そっけない返事だと思われただろうか。
いや、八木沢ならきっとわかってくれているはず。

…きっと今、私は真っ赤で、何よりも嬉しいという顔をしているはずだから。

「では、僕は男子棟へ帰ります。………また、明日」

触れた手を、離したくなかった。
けれど大事な彼女を、いつまでも外で立ちっぱなしにさせているわけにはいかない。
後ろ髪を引かれる思いで、八木沢はかなでに背を向けた。

「八木沢さん…。大好き、です…」

八木沢に触れられていた手をもう片方の手で、守るように握って、
かなではそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

「素敵な思い出をありがとう、小日向さん。…高校最後の夏、それ以上に思い入れのある夏になりました」

新横浜の駅についてから、かなではずっと泣き続けていた。

今日は、至誠館の部員たちが仙台へと帰ってゆく日。
全国大会は星奏学院の優勝。
八木沢の言った通り、かなでたちは全国優勝を成し遂げたのだった。

「…僕たちが叶えられなかった夢を叶えてくれて、ありがとう。君たちと競えたことは、僕たち至誠館吹奏学部にとっての…誇りです」

泣いているかなでに、「泣かないで」なんて言わない。
だって、自分も泣き出してしまいそうなのだから。
でも、自分は泣けない。彼女の前で、涙など見せたくない。

これは、永遠の別れなんかじゃないのだから。
最後まで男らしく。

八木沢は、震えた声で言った。

「…すぐにあなたに会いにきます。だから、それまで待っていて下さい」

「八木沢さんっ………!」

行っちゃやだ、帰っちゃだめ、と八木沢の腕の中で繰り返すかなで。
そんな光景を見て、狩野や伊織、新も鼻を啜っている。
火積は目を閉じたまま、俯いていた。

 

 

 

 

 

 

 

『プレゼント、届きました。どうもありがとう』

「気に入ってもらえましたか…?」

『ええ、もちろん。大切に使わせて頂きますね』

八木沢が仙台に帰ってからも、二人の関係は順調だった。
やはり、会えないのは寂しいが…。週に一回の長電話は、かなでにとって一番幸せな時間。

それ以外に、二人はブログで交換日記をしていた。
意外なことに、それを提案したのは八木沢。
「文明の利器は有効活用しましょう」と、電話で丁寧にパソコンの使い方を教えてくれた。

「実は、あのプレゼント…。香穂子さんが一緒に選んでくれたんです」

『そうだったんですか。ありがとうございます。…そうだ、香穂子さんといえば…』

かなでは、「ゆずのは」で出会った後、何回か香穂子と会っていた。
忙しいらしいのに、時間を作っては遊んでくれる。
すっかり仲良くなってしまった。

『この前、中学の時の恩師…火原先生にお会いしたことは、ブログにも書きましたよね』

「はい!あの、元気な先生ですよね?」

『そうそう。それで、火原先生も星奏学院出身の方なので…。香穂子さんについてお伺いしたんです。そしたら、びっくりするお話を聞いてしまって。…香穂子さんは、最近名を上げ始めた若手ヴァイオリニストだそうですね』

「え…っ?」

香穂子とは、ヴァイオリンの話なんて一度もしたことがなかった。
彼女も、ヴァイオリンをやっていたのか?
と、そこまで考えて、あの時感じた「引っかかり」を思い出す。

そうだ…
日野香穂子。それは、律が「彼女のコンサートは、一度観にいくといい」と言っていた、ヴァイオリニストの名前。

「な…な、な、な、なんでブログに書いてくれなかったんですかっ?!」

『あなたを驚かせたかったからです』

予想通りでしたね、と八木沢は笑った。

『ワンマンコンサートをやっているようなヴァイオリニストなのに、香穂子さんは本当に気さくな方ですよね』

「わ…私、すごい人と知り合っちゃったんですね…」

『ええ、それはもう』

「今度お会いした時…そのことについて、聞いてみます。…そうだ、八木沢さん。大学推薦の方は、どうなりましたか?」

最近のブログの話題は、八木沢の進路に関することが多い。
成績優秀な彼は、もちろん既に進学したい大学を決めている。

『推薦の願書は提出しました。まずは、校長に認めて頂いてからですね。…11月には決まりそうです。なので―――』

八木沢はいったん言葉を切り、もったいぶるようにしてから続けた。

『受験が終わったら、あなたに会いに行ってもよろしいですか?』

「………!」

本当は、毎月にでも会いたかった。
が、八木沢は受験生。それを配慮して、かなではむやみに「会いたいです」とは口にしなかった。
だが、とうとう会える日がくるのだ。

「も、もちろんです…っ!私も寮じゃなければ、八木沢さんに会いにいったのに…!」

『女性のもとには、男性が通うものです。…気にしないで下さい』

「っ………。ふふ、嬉しいな…」

『会いにいけそうな日がわかったら、すぐご連絡しますね』

それから2時間ほど話をして。
名残惜しく、週に一度の長電話は終わった。

「(11月、かあ…)」

カレンダーをめくって、顔をにやつかせてしまう。
今日が八木沢の誕生日。9月3日だから、あと約2ヶ月で彼に会える。

彼が進学したいという大学のことは、夏休み中、至誠館のメンバーも話題にしていた。

『八木沢は安全圏どころか推薦枠に入れるんだもんな~。宿題なんかしなくたって、進路に影響ないんだぜ?』

『そうですよねー、八木沢先輩にとって宿題なんて、あってもないようなものですよう』

『な・の・に!なんで、お前はきちんと宿題済ませてるかなああああ?!』

『そうですよう!オレも狩野先輩も、普段の成績すらヤバいのにちっとも手をつけてないんですよっ?!』

『…普段の成績に危機感があるなら、余計宿題はきっちりこなすことだよ。狩野、水嶋』

…八木沢が進学したいという大学は、仙台では二番目に偏差値の高い大学。
そこを推薦で安全圏だというのだから驚きだ。
彼曰く、そこの商学部に入りたいらしい。
更に、その大学には吹奏楽のサークルがあるのだが、これがまた規模の大きなサークルで、
その大学に入れば、トランペットも続けられるとのこと。

「(八木沢さんのことだもん…。きっとすんなり受かっちゃうよね)」

会いにきてくれた時は、八木沢が受験を終えている時。
つまり、大学に合格した後だ。

何かお祝いをしなければ。そうだ、香穂子に相談したらどうか?
彼女には、他にも聞きたいことがある。
明日連絡してみよう、とかなではベッドに入った。

 

 

 

 

 

 

 

「おはよう」

「……………」

挨拶を返すこともなく去っていく元部員を、悲しげ目で見送る。
それから、小さなため息。

「おっはよーございまーっす、八木沢部長♪」

「…ッス」

後ろから元気な声がする。
新と火積だ。

「ああ、おはよう」

安心したような顔をする八木沢を見て、二人は顔を見合わせた。

「ね、八木沢部長。気にしなくていいですよー、あんなの。ほんっと、感じ悪い!」

「………。本当なら、一回痛い目見せてやるとこなんだけどな…」
二人が憎々しげに睨んだ先は、さきほどの元部員。

…横浜から帰ってきてから、ある出来事がきっかけで、八木沢は一部の生徒から目の敵にされていた。
その「一部」とは、火積の一件で吹奏楽部をやめていった生徒たち。

全国大会に勝ち上がれなかったことを責められているわけではない。
むしろ、よくあそこまでいったと褒められたくらいで。
きっかけは、ほんの些細なできごとだった。

 

『………』

『八木沢、何見てんだ?…あーっ、それ小日向さんの写メじゃないか!』

『ちょ、ちょっと狩野。いきなり覗き込まないでくれよ』

八木沢は慌てて携帯の画面を待受に戻した。

『泣けるネェ~!そりゃあ寂しいよなあ、あれだけ毎日イチャイチャしてたお前が、会えなくなっちまったんだからな。そりゃ~、写メのひとつやふたつ、眺めたりもしちゃいますって!』

『い、今のは、小日向さんのメールに添付されていただけで…』

『えっ?!なになに?!女の話?!』

至誠館は、男臭い男子校。
女の子の話が出ると、みんな途端に食いついてくる。
なんだなんだと、八木沢はあっという間に囲まれた。

『これって星奏学院の制服じゃね?けっこー可愛いじゃん!やるな、八木沢!』

『関東の子と付き合うとかすげーな!遠恋?遠恋てやつ?!』

『ちょ、ちょっとみんな…』

盛り上がる八木沢の回りを冷ややかな目で見ていたのは、かつて吹奏楽部の部員だった生徒たちだった。

『…八木沢、星奏学院の女と付き合ってんのかよ』

『星奏学院ってライバル校だろ?何考えてんだ、あいつ』

『去年だって、火積残したせいで全国大会出場停止になったっつーのによ…』

『なんであいつが部長やってたんだ?』

ライバル校の生徒と付き合っているという八木沢に、彼らは反感を持った。
もう部活などとっくに辞めているというのに…。きっと、「彼女ができた」ということに対してのやっかみもあったのだろう。

それから、彼らは何かと八木沢に辛く当たるようになった。

 

『おい八木沢、今日掃除当番だったよな?ついでに俺たちのとこもやっとけよ、お前と違って俺らは劣等生だからよ。これから補習なんだよ』

『………ああ。わかった、やっておくよ』

八木沢は顔色も変えずに承諾する。
…次の部長を決める、大切な会議の最中に勝手に部室に乗り込んできた彼に。

『っ………許せねえ。ぶん殴ってくる!』

『わああああ!火積せんぱーい、落ち着いて下さいッ!』

部員たちも、八木沢が一部の生徒に反感を持たれていることを知っていた。
その理由も。

『ほ、火積先輩。気持ちはわかりますよ。オレだって、あんな奴けちょんけちょんにしてやりたいしー!でも、本当にやってしまったら、八木沢部長に迷惑がかかるだけですよ!』

『チッ…。そうだな。おめえの言う通りだ………悪かった』

新に宥められて、火積はおとなしく席についた。

『ふふ、火積も冷静な判断ができるようになったんだね。次の部長は、火積に決まりだな』

この状況でそんなことを言って微笑んでいる八木沢に、部員たちは悲しげな顔をする。

『…八木沢部長。いいんすか、あんな風に舐められてて』

『そうですよぉ!ただの嫉妬だろーって、言い返してやればいいじゃないですかぁ!』

『…いいんだよ。彼らの思っていることももっともだ。僕は、ライバル校の方とお付き合いしているんだからね。敵と通じ合ってる…母校を蔑ろにしている…そう思われたって、仕方ないさ』

『で、でもよ!あいつは…敵とか、そんな奴じゃ…!』

『かなでちゃんも星奏学院のみんなも、敵なんかじゃありませんよ!』

『そうだよ。でもそれは、彼らと同じステージに立ち、彼らと共に過ごした君たちにしかわからない。…君たちにわかってもらっていると知っているから、僕はそれでいいんだ』

星奏学院に部長が目当ての女がいたから、大会では手を抜いたんじゃないか。
そんな、出場メンバー全員を侮辱するようなことを言い出す輩もいた。

しかし、八木沢は怒ることはしなかった。
自分も部員も、出せる限りの力を持って大会に臨んだのだ。
それが星奏学院に及ばなかっただけ。
そんなこと、出場メンバーはみんな知っている。

誰になんと言われようと、僕たちはあの大会に出て、演奏し、星奏学院と競えたことを誇りに思っていい。
八木沢は、そう語った。

『うう…。ごめんな、八木沢…。俺が教室で騒ぎ立てたりしなければ…』

『何を言っているんだい、狩野。君らしくないじゃないか。にぎやかなのは、君の専売特許だろう?』

『八木沢…』

『だ…誰がなんと言おうと、ボクらは八木沢部長を信じてる…それでいいんだよね…?』

『あったりまえですよ、伊織先輩!』

一部の生徒にどんなことを思われようと、ちゃんとわかってくれる部員たちがいる。
八木沢にとってそれは、一番の心の支えだった。

 

「…でも、八木沢部長。かなでちゃんと付き合っていることがあいつらにとって気に食わないなら、別れたーとか言ってやり過ごしちゃえばいいんじゃないですか?」

「…そうだな。単純な噂を信じるような奴らだ…。それで解決しちまうような気がしなくもねぇな…」

「それはしないよ」

八木沢は微笑んだ。

「えっ!な、なんでですか!一番いい方法なのに!」

「たとえその場しのぎの嘘だとしても、僕は小日向さんに誠実でありたいんだ。彼女がいないところで…だとしても、ね」

「や…八木沢部長…!八木沢部長、かぁっこいいッ!」

「こ、こら、水嶋!」

「(八木沢部長…あんたは…。やっぱ、俺の師匠だ…)」

 

 

 

 

 

 

 

「かなでちゃん!お待たせ~♪」

「か、香穂子さん!こ、こんにちは!」

かなでは駅前で香穂子と待ち合わせていた。
八木沢から話を聞いてしまってから、なんだかまともに彼女の顔を見れない。

「………?かなでちゃん?どうかした?」

「あ…あの…。香穂子さんって…」

かなでは八木沢から聞いた話を打ち明けた。

 

「あ…ははっ!バレちゃったか~」

「………。わ、私…。お名前は知っていたはずなのに…。まさか、ご本人だとは…」

「あー、そうかしこまらないで。…後ろめたいことがあって隠してたわけじゃないんだけどね。…その。本業話すと、みんな他人行儀になっちゃって…それが寂しいから、あまり人に話さないようにしてるの。かなでちゃんは星奏学院でヴァイオリンやってるから、尚更…」

「あっ…!そ、そうだったんですか…」

「だから、かなでちゃんもあまり気にしないで、今までと同じように仲良くしてくれる?」

有名人にもそういう事情があるのか。
かなでは頷いた。

「は、はいっ!もちろんです!」

「よかった♪…今日はどこに行く?」

「あの、喫茶店に入ってもいいですか?ご相談したいことがあって…」

 

「なるほど!八木沢くんに、お祝いしたいんだね!」

「はい。…でも、久しぶりに会うから、何かプレゼントするだけじゃつまらないかな、って…」

「そうかあ…。うーん………」

思い起こすのは、柚木との思い出。
彼に何をしたら喜んでくれた?
私は何をされたら嬉しかった?
もちろん、プレゼントを渡したり、どこかいいお店に行ったりすることは、喜ばれたし嬉しかったが…

「…かなでちゃんにしかできないことをする、とかは?」

「私にしか…?」

「そうそう。たとえば…ヴァイオリン弾いてあげるとか!」

「あっ…!で、でも。私のヴァイオリンなんかじゃ…喜んでもらえるかどうか…」

「喜んでくれるに決まってるじゃない!それに、そういうことなら私も協力できるからね…?」

「………!」

こうして、八木沢の合格祝いパーティーの企画は進んでいった。

 

 

 

「………ってことなんですけど」

「……………」

柚木は黙ったまま微笑んでいる。
香穂子は彼と目を合わせることができずに冷や汗をかいていた。

「………いいぜ。うちの店を貸してやる」

「ほ…本当ですかぁ?!」

大手を振って「ゆずのはでお祝いすればいいよ!」なんてかなでに言ってしまった手前、本人に許可を取ることにビクビクしていた。

「貸し切り料はお前の時給3年分で手を打ってやる」

「う…っ。あの、本業の収入でなんとかします…」

「冗談だよ。…ただし、貸し切らせるのは営業時間が終わってからだからな。さすがに丸一日の売り上げを減らすわけにはいかない」

「そ、それで全然平気ですっ!で、その…。当日は、柚木先輩にもフルートで参加してもらいたいなぁ、と…」

「俺も?まあ、構わないが。ヴァイオリン二本とフルート、それだけでいいのか?」

「…まあ、曲は悩みますけど。同じ事務所の子に、声かけてみようかな…」

「適任なメンバーがもっと他にいるだろう?」

「え………。ま、まさか」

「日にちが決まったら、俺に教えろよ」

 

 

 

 

 

 

 

「ど…どういうことなんですか?!」

進路相談室で、八木沢は叫んでいた。
季節はもう、秋真っ最中の10月。

進路相談室に呼ばれた八木沢は、校内推薦の結果を告げられるのだとばかり思っていた。
それなのに―――

「今更文句を言われてもどうにもできないぞ。…既に、校内推薦枠が埋まっているどころか、校内推薦を通っているんだからな」

進路指導の教師は、そう言ってほくそ笑んだ。

「ぼ…僕は確かに、願書を提出しました!三年になってからも、僕はあの大学に進学するつもりだと話していましたし…っ。願書を受け取って頂いたのは先生じゃないですか!」

「知らんなあ。…お前の勘違いじゃないのか?」

「そんな…」

八木沢が提出したはずの校内推薦の願書。
それは受理されておらず、推薦枠はなんと他の生徒で埋まり、既に通ってしまったというのだ。

普通に考えて、ありえない。
だが、八木沢にはわかっていた。
なぜ、こんな仕打ちを受けたのか―――

「お前は星奏学院の生徒と交際しているそうだな。関東の大学にでも行ったらいいんじゃないのか、え?ライバル校の生徒と付き合うような愛校心の浅いお前より、他の生徒を推薦枠に入れてやりたいと思うのが教師心ってやつだ」

進路相談室を出ようとした八木沢に、教師はからかうように言う。
その言葉の中には、静かな怒りが宿っていた。

―――進路指導の教師…それは、
火積を退部にさせようとした、吹奏楽部の元顧問。

「(大学は、一般入試でも入ることはできる。でも…。11月には、とても間に合わない…)」

11月に会えることを、かなではあんなに楽しみにしていてくれたのに。

…いや、今は自分の進路を最優先で考えるべき時だ。
あの時、かなでにだって言い聞かせたじゃないか―――

「(小日向さん…ごめんなさい…)」

 

「えっ…?そ、そんな、まさか!」

「部長が校内推薦で落ちるなんて…ありえねぇ…!」

「や、八木沢!どういうことだよ!」

吹奏楽部の部室内。
部員たちはみな一様に「信じられない」といった顔で、八木沢を囲んでいた。

「はは…。僕じゃ、まだまだ実力不足だったみたいだ。みんな応援してくれたのに、ごめんな」

八木沢は、部員たちに「校内推薦に落ちてしまった」と話していた。
本当のことを話したら、きっとみんな進路指導の教師に抗議に行くだろう。
でも、そんなことをしたら、彼らまで目をつけられてしまう。

あと少しで卒業してしまう自分とは違い、彼らの中には1年生や2年生もいる。これからもこの学校で、うまくやっていかなければならないのだ。

「……………」

そんな中、伊織だけは黙ったまま、八木沢を見ていた。

「…今日で、僕たち三年は引退だ。最後の日に、こんな報告をしてしまって、すまなかった。最後にみんなで合奏しよう」

 

「……………」

全員で最後の演奏を終え、部員たちは部室の片付けをしていた。
八木沢と狩野は用事があると言って先に帰った。

「あっ、これどこに置いたらいいですか~?ほ・づ・み・ぶ・ちょー♪」

「う…うるせぇ…」

「いたたっ!なんで殴るんですかぁ~!」

火積は赤くなって新を叩く。
…しかし、すぐに表情を暗くした。

「しかしよ…。八木沢部長、どうしちまったってんだ…。あの人が校内推薦に落ちちまっただなんてよ…!」

「…オレも今だに信じられませんよ。八木沢部長のことだから、一般入試でもすんなりだろうけど…。早く受かって、かなでちゃんに会いに行くんだ、って嬉しそうにしてたのに…」

「………あのっ!あの………」

珍しく声を張り上げた伊織に、一同が注目する。

「どうしたんだ、伊織…?」

「ボク…ボク、聞いちゃったんだ。昨日、たまたま進路相談室の前を通り掛かって…」

 

「マジですか、伊織先輩…」

八木沢は、校内推薦に落ちたんじゃない。
進路指導の教師の嫌がらせで、推薦を受けることすらできなかった。
伊織が一部始終を話すと、一同は絶句した。

「そ…、そんなの。嫌がらせどころの話じゃないじゃないか…!」

ガタッ!

「ほ、火積先輩!」

勢いよく立ち上がり、部室を出ようとする火積を、新が羽交い締めにする。

「火積先輩!落ち着いて下さい!」

「離しやがれ、水嶋!あの野郎、俺がぶっ殺してやる!」

火積は激しい怒りで我を忘れ、今にも新を振り切ってしまいそうだ。

「お、落ち着いてよ火積くん!…八木沢部長が落ちただなんてボクたちに話したのは、きっとボクたちのことを考えてくれたからなんだ…」

「そ、そうですよ、火積先輩!ここで火積先輩がアイツを殴りでもしたら、退学になっちゃいますよっ!そんなことになったら、吹奏楽部の部長はどうするんですか!八木沢部長から托された部長のポジションを、どうするつもりなんですか!」

「くっ…」

火積が体の力を抜いたことに気づき、新は火積の体から腕を離した。
途端に床に崩れ落ちる。

「わかってんだよ、んなことは…。でもよ、俺たちにできることは何もないってのか?…俺は、あの人にはすげぇ世話になった。問題起こして退部になりそうだった俺を、顧問や他の部員たちに批難されながらも、拾ってくれてよぉ…。地方大会にまで、連れてってくれた…。俺の、恩人なんだよ…!それなのに、俺は………最後まで、あの人がこんな目にあってる時でさえ…なんにもしてやれねぇってのかよぉ………!」

嗚咽混じりに、床を何度も叩きながら火積は語った。
そんな彼を見ながら、新も伊織も涙ぐむ。

「………何も、してあげられないなんてこと………ありませんよ!」

明るく声を張り上げたのは、新だった。

「オレ…。今、思い付いたんですけど。みんなで、八木沢部長にプレゼントしませんか?!」

「み、水嶋くん。プレゼント…って?」

「それは―――――」

 

 

 

「そうか…」

帰宅してから、八木沢は父に校内推薦の話をしていた。

「まあ…。結果は結果だ、仕方ない。それで、一般入試を受けることにしたのか?」

「…そう、だね。僕の努力が足りなかったんだ。…ごめん、父さん」

「………。なあ、雪広。お前は、大学に行って商学部で勉強したいと言ったな?」

「う、うん。それが…何か?」

「いや、お前が夏休みに横浜の方に行っていた時にな。母さんとも話していたんだが…。あっちの方が、いろんな学校がたくさんあるんじゃないか?」

「…えっ。それは、どういう…」

「もちろん、お前には店を継いでほしいと思ってるが、何もこっちにこだわって探さなくてもいいんだぞ。若者は都会に出たいものだろう?」

「父さん。ここにきて、いきなり進路を変えるつもりはないよ。今までも、別に受験勉強を怠っていたわけじゃない。一般入試で受かってみせるから、安心して」

「いやいや。そういうわけじゃなくてだな。なんというか、もっと広い視野を持ってほしいと…」

「父さん。僕を家から追い出したいのかい?」

「まさか。可愛い子には旅をさせろというだろう。父さんたちは、お前がどんな道を選んでも、決して反対はしないということだ」

「………」

そういうことだからな、と去っていく父の背中を見ながら、八木沢は考えていた。

将来、実家のために役立てるように、と商学部を選択した八木沢だったが。
果たして、それだけが役立てることなんだろうか。

もっと他にも、違う道があるんじゃないか。

「(大学………か)」

もしかしたら、あの進路指導の教師は、自分に嫌がらせをしたのではなく―――
彼にその気がなくても、新たな道を提示してくれたのではないか?

八木沢は部屋に戻り、パソコンを起動させた。

 

 

 

 

 

 

 

かなでは、香穂子に渡された楽譜を眺めながら、部室に向かっていた。

『一緒に練習する時間が取れないから、当日一発勝負なんだけど…。みんな上手だから、絶対大丈夫!』

八木沢の合格祝いのパーティーで、かなではヴァイオリンの演奏をすることになった。
香穂子も柚木も一緒に演奏してくれるとのことで、それだけで驚いたのに…
香穂子は他にも、楽器ができる人たちを呼んでくれるのだという。

「(香穂子さんの知り合いだもん…きっとみんな、上手な人ばっかりなんだろうな…)」

「………て、完全に………じゃねぇかよ!」

「まったくです!…の、…にもおけない!」

「………?」

部室の近くまでくると、響也とハルが激しく怒っているような声が聞こえた。

「そんなんじゃ八木沢が…!」

………?
八木沢?
何事かと部室に飛び込もうとしたかなでだったが、八木沢の名前が出たのを聞いて立ち止まる。
部室のドアに耳をつけて、彼らの話を盗み聞きする。

「…なんつーかさ。いろんな教師がいるもんだよな、ホント。普通あれだろ、生徒にいい大学行かせるのが教師の務めだろ」

「…本当ですよ。しかもわざと八木沢さんの校内推薦を阻んだ理由が、ライバル校の女子と交際しているからだとか…どこまでおとなげないんだか」

「(え…?)」

一体どういうことなのか。
かなではそのまま、彼らの話を聞くことにした。

「でも、校内推薦受けられなくても、一般で受けられるんだろ。あいつ頭良さそうだったし、大丈夫かもな」

「そうですけど…。本当に胸糞悪い話ですよ。一部の生徒にも嫌がらせまがいのことをされているらしいですし。ライバル校の女子と付き合うなんて、愛校心が足りない、とか言って」

「はあ?愛校心?ばっかじゃねーの。ただの嫉妬だろ、嫉妬」

「…あの新でさえ、本気で憤慨していましたからね。そうそう、響也先輩。この話、小日向先輩にはしないで下さいね」

「わーってるって。そんなん話したらあいつ、八木沢が校内推薦通らなかったのは自分のせいだー、なんて言い出すだろ」

「………小日向先輩は、優しい方ですから。そう思い込んでしまうでしょうね」

「………」

そんな。
八木沢が、校内推薦を通らなかった―――
それも、自分のせいで?

かなでは、部室の前から立ち去った。

一部の生徒から嫌がらせを―――
それだって、八木沢からは一度も聞いていない。
彼のブログは楽しくて、読んでいるだけで幸せな気持ちになれて、
もちろん、電話でだってひとことも。

「私の…せいで…」

 

 

 

寮に戻り、かなではパソコンを起動した。
ブログをチェックすると、記事が更新されている。

 

小日向さんに、報告しなければいけないことがあります。
実は、校内推薦に落ちてしまいました。

応援して下さったのに、力が及ばず…申し訳ありません。

11月に会うことはできなくなってしまいました。
でも、受験が終わり、落ち着いたらすぐにお知らせします。

楽しみにしていたのに…悔しいですが、
待っていて下されば幸いです。

詳しいことは、また電話した時にお話しますね。

 

「………」

八木沢が校内推薦を通らなかったという話は、本当だった。
…しかも、八木沢は「落ちた」と言っている。ハルたちの話では、進路指導の教師に嫌がらせ目的で…ということだったのに。

八木沢はきっと、かなでを気遣って「落ちた」と書いているのだろう…。

その人の進路を変えてしまうということは、その人の人生を変えてしまうのと一緒だ。

「私と付き合ってるせいで八木沢さんは…。私は、なんてことを…!」

まっさきに頭に浮かんだのは、「別れる」という言葉。
でも、今更別れたところで、八木沢が校内推薦を通るわけじゃない。
何より、別れたくなんかない。

それでは、一体どう詫びたらいいのか。

かなでは、八木沢のブログに対して、何も書き込むことができなかった―――。

 

 

 

 

 

 

 

「(………小日向さん、どうしたんだろう)」

かなでがブログを書く日になっても、ブログは更新されなかった。
今まで一度も欠かしたことがないのに、どうしてしまったんだろう。
校内推薦を通らなかったせいで、会う日が延びてしまったことに怒ってしまったのだろうか?

今日は電話をする日だ。もしかしたら、体調を崩したとか、パソコンが壊れたなどの理由でブログが更新できないのかもしれない。

前者だったら、電話をしてもいいものか…。

「(とりあえず、メールで一度確認を取ってからにしよう)」

八木沢は、電話をしてもいいかどうかかなでにメールをした。

 

数分後、かなでから返信がきた。

「大丈夫です…私も話したいことがあるから…か。どうしたんだろう、どこか元気がないような…?」

しかし、電話はOKとのことなのだから、何があったのかは電話して聞けばいい。
八木沢はさっそくかなでに電話をかけた。

「もしもし、八木沢です。こんばんは」

『………こんばんは』

やはり元気がない。

「小日向さん、少し気になっていたんですが…。何かあったのでしょうか?元気がないように思います」

『………』

かなでは八木沢の事情を知ってから、ずっと落ち込んでいた。
いきなり「ごめんなさい」と書けるわけもなく、どうしたらいいのかわからないまま、ブログも更新しなかった。
八木沢に心配されてしまうかもしれない…そう思っているのに、罪悪感でいっぱいで、かける言葉が見つからなかったのだった。

『八木沢さん…。八木沢さんが校内推薦を通らなかったのは、私のせいなんですよね…?』

「え…?」

意外な言葉に、八木沢は驚いた。

『…小日向さん、なぜそんなことを…?』

校内推薦を通らなかった本当の理由は、至誠館の生徒すら知らない話のはずだ。
なのに、なぜ遠い地にいるかなでが知っているのか?
…いや、今はそんなことはどうでもいい。

かなではきっと、それを知って気に病み、元気がなかったのだろう。
かなでには、いつも笑っていてほしい。毎日会える距離ではないから、せめて毎日楽しく過ごしていてくれればいいと、それだけを願っていた八木沢にとって、自分のことでかなでに辛い思いをさせてしまっている事実を悲しんだ。

『生徒だけじゃなく…先生にまでそんな仕打ちをされているなんて、私全然知りませんでした。八木沢さんのブログも、週に一回の電話も、いつも楽しい話題ばっかりで…。八木沢さんが辛い目にあっているのに、私は………!』

「………校内推薦に通らなかったの理由は、あなたがおっしゃる通りです。けれど、僕は辛くなんてありませんでしたよ?」

『………えっ』

かなでは何もかも知っている。
ならば、このまま隠し通すより、本当のことを話してしまった方がいい―――
八木沢は続けた。

「ひょんなことから、星奏学院の生徒であるあなたと交際していることが周囲に知られてから、確かに僕に対して態度が悪くなった生徒はいます。けれど、僕にとってはそんなことより、毎日会うことができない距離にいたとしても、あなたと心を通わせられていることが嬉しくて…。彼らには申し訳ないですが、正直、どうでもよかったんです」

『ど…どうでも…?』

「彼らに辛く当たられたとしても、あなたとの仲が崩壊してしまうわけではありませんから。…だから、ブログでも電話でも、あなたに相談しなかったんです」

『で、でも。先生の件は…』

「はは、あれはさすがに驚きましたけれどね。まさか、先生にあんなことをされてしまうとは。…でも、今となっては感謝しているんです」

『か、感謝?!』

八木沢が嘘をついていないことは、彼の落ち着いた語り口から理解できた。

「はい、実は。…進学する学校を、変えるつもりでいるんです」

『えっ?!校内推薦で入ろうとしてた大学じゃなくて…ってこと、ですか…?』

「はい。最初は一般入試で受け直すつもりだったのですが、校内推薦を通らなかったことを父に話した後、今一度よく考えてみたんです」

僕は、一年の頃から進学する大学を決めていました。
実家の和菓子屋を継ぎたいという気持ちは既にありましたから、経営学について学べ、更にトランペットも続けられる大学…一番、僕にとって条件がよかった。

校内推薦が通り、大学の推薦試験に受かれば、なんの疑問も持たずに進学していたでしょう。

しかし、父と話して…。
経営学を学ぶことが、本当に店のためになるのかと、ちょっとした疑問を持ちました。
父は、この地にとどまらずとも、いろんな世界を知ってもいいのではないかと言ってくれました。

…僕は、祖父や父から受け継いだ製菓の方法を、もうほとんど習得したつもりでいます。
伝統の味を受け継ぎ守ることは、もちろん大切なことです。ですが、祖父の代、父の代で新たに作り上げられたものは、確かに存在するのです。

だから、僕も―――
僕の代で、新しい何かを取り入れ、作り出すことが必要なのではないかと。
それは、経営方法を学ぶより、もっと大切なことなのではないかと―――

そう語って、八木沢は一旦言葉を切った。

『え…。じゃ、じゃあ』

「はい。…インターネットで探して、僕の理想の学校を見つけてしまって。…東京にある、製菓の専門学校です」

『………!東京…?!』

「洋菓子専門の学校はいくつもあるんですが、和菓子を学べる学校はあまりなくて…。東京に、一校だけ見つけたんです。試験は書類専攻ですが、既に菓子の製作を身につけている者は、実技試験があって…。通過すれば、学費免除などの特待制度が受けられると」

『じゃあ、八木沢さんはそこに…?』

「ええ。ですが、一度見学に行かなければいけないと思って。説明会は、…11月の中頃なんです」

11月。
それを聞いて、かなでははっとした。
八木沢も、含みのある言い方をしたということは、きっと。

「…校内推薦を何事もなく通過してしまったら、こんなふうに考える機会はありませんでした。この時期になって進学先を変えるなど…と迷いましたが、両親が背中を押してくれまして…」

『や…八木沢さんなら、絶対特待制度で合格するじゃないですか!』

「いえ、まだわかりません。でも、受ける方向では考えていますよ」

かなでは、胸を撫で下ろした。
自分のせいで、八木沢の未来を経ってしまったと思い込んでいたのに…
彼はしっかりと、新たな道を探していた―――

『わ、私…。私のせいで、八木沢さんには辛い思いばかりさせてしまったんだってずっと考えてて…。だから、…だから、すごく…安心しました…』

緊張の糸が切れたのか、かなでは電話越しに泣きじゃくっている。

「泣かないで下さい、小日向さん。僕の方こそ、あなたにちゃんとお話をしなかったせいで心配をかけてしまって…ごめんなさい」

『八木沢さんは悪くありません!私こそ…』

「いいえ、僕の方こそ…」

言い合って、どちらともなく吹き出した。
電話越しにかなでの笑う声を聞いて、八木沢は安堵する。

「小日向さん、11月…東京に向かった時、よろしければお会いしましょう。もちろん、その後はまた試験の対策で忙しくはなってしまいますが…。その前に、是非一度」

『も、もちろんです!何日になりますか?!』

かなでは慌ててスケジュール帳を開いた。

「日付は―――」

 

『…二年間、実家を離れて暮らすってことなんですよね。その…。八木沢さん、夏に横浜に来た時も、寂しいって言ってたから…その、よくご両親も承諾して下さいましたね』

「若者なんだから、一度東京に出るのもいいんじゃないかと言われてしまいました。…僕には、そういった考えは全くなかったですからね。本当は、地元に条件の合った学校があればよかったんですが…」

でも、と八木沢は続けた。

「東京に理想の学校が見つかった時…少なからず嬉しいと思ってしまったんです。…その、東京の学校に行ったなら、あなたとすぐ会うことができる、と…」

『っ………。そ、そうですよね。菩提樹寮にいた頃とは違って、同じ場所に住むことはできなくても…仙台よりは、ずっと近いし…』

「なんだか、あなたの近くにいたいがために東京の学校を選んでしまったようで………誰に冷やかされたわけでもないですが、気恥ずかしいです」

『………。う、嬉しいです…』

「支倉さんにからかわれていた方が、ずっとマシでしたね。自分で自分を冷やかしているようで」

照れ笑いをしている彼が目に浮かぶ。

「トランペットも、もちろん続けます。もっとも、こちらより自由に吹ける場所は少なくなってしまうかもしれませんが…」

『そ、それなら。夏休みの時みたいに、横浜で一緒に演奏しましょう!』

「ええ。…本当に、楽しみだな」

それから、話は盛り上がってしまい、通話を終えたのは夜中だった。

 

「…よかった」

電話を切ってしばらくしてから、パソコンを起動してみると…
かなでがブログの更新していた。
最初は、しばらくブログを書けなかったことの謝罪だったが、大半が11月が楽しみだ、という喜びの文章だった。

「(まさか小日向さんにあんな心配をかけてしまうなんて…。でも、あの話は至誠館の生徒すら知らないはずなのに、どうして…)」

もしかしたら。八木沢は思った。
かなでに話がいくとしたら、星奏学院の生徒と繋がりがある人物からだけだ。
星奏学院の生徒と繋がりがあるのは―――菩提樹寮に滞在した、部員たち。

まさか、彼らに話が漏れていたのか?
だとしたら、彼らにもきちんと事情を話して、安心させてやらなければ。

 

 

 

 

 

 

 

「おはよう、火積」

「っ………。八木沢部長。おはようございます」

登校時、火積の姿を見かけた八木沢は、ちょうどいい機会だ、と例の話をしてみることにした。
が、今は登校時間。なるべくならゆっくり話せる時間がほしい。

「はは、僕はもう部長じゃないよ。部長は君だろう、火積?」

「っ…、お、俺の中じゃ…。八木沢部長は、永遠に八木沢部長ッス」

「嬉しいけれど、いつまでもそんなことを言っていたらだめだよ、火積。それで…。もしよかったら、今日の放課後、時間をもらえないかな。なるべくなら、他の部員も…」

「す、すいません八木沢部長。ちょっと、今日は…」

「あっ…!八木沢部長ーっ!火積部長ーっ!おっはよーございまーっす!」

後ろから元気な声が聞こえた。
新だ。

「おはよう、水嶋。部長が二人になっているよ?」

「へっへーん。オレの中ではー、八木沢部長は永遠の部長なんですーっ♪」

「……………」

「驚いた、火積と同じことを言うんだね。そうそう、水嶋…」

「…っ、火積部長!」

「あ」

新は火積の肩を抱え、そそくさと八木沢から遠ざかった。
何やらひそひそ話をしている。

「(…火積部長、まさか八木沢部長にあのコトばらしたりしてないですよね?!)」

「(してねぇよ。それより、今日の放課後、時間ねぇかって言われたんだけどよ。今日は…)」

「(そ、そうなんですかぁ?うーん、どうやってごまかそ…)」

「………?」

「あっ!八木沢部長~。実はですね~、火積部長になってから地獄の練習が始まっちゃいまして!もう、八木沢部長が鬼部長なら火積部長は鬼の大将部長って感じで!」

「………」

火積は右の拳を震わせていた。

「そう…なのかい?じゃあ、部活動を邪魔するわけにはいかないな。火積、新しく体制を立て直すのは大変だと思うけれど、頑張って。来年は、全国優勝目指して」

「………ッス!精一杯、やってみせます!」

「もし時間ができた時は、声をかけてくれよ。じゃあ」

八木沢を見送って、火積と水嶋は冷や汗を拭った。

「と…とりあえず、なんとかなりましたね、火積部長!」

「ああ…。今日の部の方は伊織に任せてある。お前もしっかりやっとけよ」

「オッス!」

 

 

 

 

 

 

 

「本当は日帰りもできるんだけど…」

「あまり急いで何かあったら大変だろう。ゆっくり見てこい。まあ、東京見学でもして」

「…父さん、遊びに行くんじゃないんだよ」

いよいよ、明後日は東京へ学校説明会に行く日。
本当は日帰りで行くつもりだったのだが、八木沢の父は新幹線のチケットと、滞在できるホテルの予約を取ってくれた。

「平日ならともかく、土日なんだしな。土産も期待してるぞ、ははは」

「(ありがとう、父さん…)」

かなでは、八木沢が東京に行く日が近づくにつれ、いてもたってもいられないらしい。
日帰りではなくホテルに滞在することを告げると、なんだか安心していたような気がするが…。

八木沢としても、かなでに会える時間が増えたことは嬉しい。

かなでには、説明会が終わったら横浜に会いに行くと告げた。
すると、「行きたいところがあるので、夜から会いたい」と言われた。
ああ、だから日帰りじゃないと言った時に安心したのか、と思ったものの、夜に外出して大丈夫なのだろうか。

「当日はとにかく私が全部セッティングしてありますから!」と言っていたが、どこに連れていってくれるのだろう。
わざわざ夜から行く場所だから、隠れた名所に連れていってくれるのかもしれない。

説明会に行くというのに、考えてしまうのはかなでのことばかり。
自分でも不真面目だと思ったが、その感情は止められるものではなかった。
それに―――

「(小日向さんのおかけで―――)」

八木沢は自室に戻り、ルーズリーフに書き込んだメモを見直した。

 

 

 

 

 

 

 

「(今日は早く帰って…明日の準備と)」

「八木沢部長!」

「?」

いよいよ出発が迫った金曜日の放課後。
下校する準備を整えといた八木沢のもとに、火積がやってきた。

「やあ、火積。どうしたんだい?」

「っ…。もしかして、今日はお急ぎで…?」

「ううん、大丈夫だよ」

「実は…ちょっとお話が…」

 

ゆっくり話そう、と二人は屋上に向かった。
八木沢も、まだ火積たちに東京の学校に行くことを話していない。
合格したらこの地を離れることになるのだから、彼らにも早めに話をしておきたかった。

「そういえば…部はいいのかい?」

「や…。ちょっと抜けるって言って、伊織に任してあります」

「そうか。…火積、この前僕が話があると言ったこと、覚えている?」

「は、はい」

「それとも、君の話を先に聞いた方がいいかな?」

「っ…。いや、八木沢部長からどうぞ」

八木沢は頷いて、東京の学校に行くこと、その理由を話した。

 

「………!」

「校内推薦に落ちたから妥協して他の学校に行くことにした、なんて思われてしまうかもしれないけれど。僕は、そう決めたんだ」

「いいえ!八木沢部長は立派ッス!大学でも専門でも、実家の家業のことを考えての決断じゃないすか!………でも」

話をした後、火積は尊敬の眼差しを見せながら、一方で寂しそうな顔をしていた。

「卒業されちまうことで…学校にはもう八木沢部長がいないとわかってても、地元にいねぇんだって思うと…恥ずかしい話、心細ぇ。それにその…寂しくなっちまいます」

「…ありがとう、火積。でも、僕がいなくたって、君ならもう大丈夫。立派に部員たちを引っ張っていける部長になれるさ」

「恐縮ッス…!」

「それで、火積の話って?」

「………」

八木沢から聞いた話で、予定が狂ってしまった。
臨機応変に対応することが苦手な火積は、言葉に詰まってしまう。
こういう時の対処法は、新の方が得意なのだが…

いや、いつまでも部員に頼っていたら、八木沢の言う立派な部長になどなれない。
頭をフル回転させ、火積は言った。

「あ、あのッ!明日、出発の時…。部員たちで、お見送りしてもいいッスか?!」

「えっ!………う、うん。いいのかい?そんなことしてもらって…」

「も、もちろんッス。部長の旅立ちを見送るのが、俺たち部員の務めッスから」

「…はは、まだ説明会に行く程度なんだけれどね。でも、嬉しいよ。ありがとう、火積」

 

屋上を出た後、火積は一目散に部室に駆け込んだ。

「お、おい!テメェら!」

「あっ、火積部長~。八木沢部長に明日の約束、返事もらえました~?」

「………事情が変わった」

 

「えぇ?!」

八木沢から聞いた話を聞かせると、一同は皆驚きの声を上げた。

「や、八木沢部長が東京の学校に?!し、しかも明日は説明会?!」

「…そうなんだよ。それで、咄嗟に…。明日、全員で見送り行くって、言っちまった」

「…ほ、火積くん。でも、いいんじゃないかな…。もともと八木沢部長には、明日部室に来てもらうはずだったんだし」

「…そうですよね、伊織先輩。部室がホームに変わっただけですって!………あ、でも」

しゅん、と新が俯いた。

「例の『アレ』…。無駄になっちゃうのか…」

新の言葉に、一同も俯く。

「八木沢部長…。東京に行っちゃうんだもんね…」

「………。とにかく、明日は八木沢部長が東京に行かれる大事な日だ。最高の演奏しなきゃなんねぇ。テメェら、練習再開すんぞ!」

「はい!」

 

 

 

『明日はいよいよだね~』

「はいっ!」

その夜。
かなでは香穂子と電話をしていた。

『日帰り、って聞いた時はどうしようかと思ったよ~。昼間はお店取れないし、最終手段でホールでも借りようと思ってて』

「はい、よかったです…ホテルに滞在するってことになって」

『明日は…10時にお店だね。八木沢くんにはもう連絡した?』

「はい。明日は、夜から待ち合わせて行きます。よろしくお願いします、香穂子さん」

『任せて任せて!こっちは準備バッチリだから♪』

営業時間が終わってからという話なので、夜10時からの貸し切りとなってしまったから、終電に間に合うまでなので、あまりゆっくりはできないが…
それでも、明日のパーティーは成功させたい。

香穂子の話によれば、明日は8人ほど、パーティーの演奏のためだけに集まってくれるらしい。
そこまでしてもらうのも悪いと最初は気がひけたが、香穂子の厚意に甘えることにした。

 

通話を終えて、かなではヴァイオリンのメンテナンスを始める。
八木沢にサプライズを与えるため、午前中店に預けておく予定だ。

今まで、自分のためだけにヴァイオリンを弾いてきたかなで。
誰かのためだけに演奏するなんて、初めてのことだ。

けれど、なぜか。
明日は、いつも以上にうまく弾けそうな気がしていた。

 

 

 

 

 

 

 

「(………あと、30分か)」

時刻表を見遣って、それから腕時計を見る。
八木沢が乗る新幹線は、あと30分で出発する。
念のため早めに出てきたので、火積たちはまだいない。

まさか、見送りにきてもらえるなんて思っていなかった。
優しい部員たちの心遣いに、胸が温まる。

「八木沢部長!」

「…火積?来てくれてありが―――――え?」

火積の声に振り向くと…
部員全員が、応援団の装いで楽器を携えて立っていた。

「み、みんな…?」

「八木沢部長!………俺たちの演奏、聞いてやって下さい!」

「っ………」

♪♪♪~♪~…

「(これは…ムーアサイド組曲…!)」

地方大会で演奏した一曲。
それは、八木沢が好きな曲でもあった。

♪~…

演奏が終わり、楽器を下ろしはにかむ部員たちに、八木沢は拍手をした。
部員ひとりひとりが想いを込めて吹いてくれていると、そう心から思える演奏。
通り過ぎる人々からも、「あの子たちすごいね」なんて声が聞こえてきた。

「………素晴らしい演奏だった。みんな、ありがとう。改めて、これで安心して卒業できると…確信したよ」

「これでも、時間詰めて練習したんです。俺たちには、まだこんな演奏しかできねぇけど…。次に八木沢部長に聞いてもらう日には、もっと…何倍も上手くなってるって、約束します」

火積はそう言って、ポケットから何か取り出した。

「それと………これ。俺たち部員からの、祝いの品ッス」

「………これは」

受け取って、その小さな包みを開けると。
そこには、仙台と新横浜間の、新幹線の回数券が入っていた。
決して安いものではないそのチケットを見て、八木沢は驚く。

「………っ!こ、こんな高価なもの…一体…」

「…この何ヶ月間か、部員たちでバイトして…貯めた金で、買ったもんです。一人ずつ順番にシフト回して…部活もきちんとやれるように」

「提案してくれたのは、水嶋くんなんですよ」

「八木沢部長が、かなでちゃんにたくさん会いにいけるようにーって!…でも、八木沢部長は東京に行っちゃうから…もう、意味のないものになっちゃいましたけど…」

 

『………何も、してあげられないなんてこと………ありませんよ!オレ…。今、思い付いたんですけど。みんなで、八木沢部長にプレゼントしませんか?!』

『み、水嶋くん。プレゼント…って?』

『それは―――――。新幹線の、チケット!しかも回数券。八木沢部長が、かなでちゃんにたくさん会いに行けるよーにっ!』

『回数券…!』

『…水嶋。新幹線の回数券なんて、安いもんじゃねぇんだぞ…』

『だーかーら。バイトするんですよっ、バイト。部員みんなでやれば、すぐお金なんか貯まっちゃいます!オレ、すぐできるいいバイト知ってますから!友達と応募オッケーみたいな!』

『…部活はどうすんだ。部活疎かにしたら、それこそ本末転倒だろうが』

『みんなでローテーションして、やるんです。土日に全員集まれれば充分でしょ。それで、八木沢部長に聞かせる曲の練習して…』

 

「………意味のないものなんかじゃないよ」

八木沢は言った。

「僕は東京に行く。だから、仙台からこのチケットを使うことはなくなってしまうけれど…。新横浜から、仙台に来るためにも使えるじゃないか」

「あ………!」

「僕が小日向さんに会うために使えるように…という君たちの心遣いは嬉しい。けれど、東京の学校に行くと決まった今、この回数券は…君たちに会いにくるために使わせてもらってもいいかな…?」

「も…もちろんッス!…俺ら、八木沢部長にはホント世話になったっつーのに…。部長が辛い時、なんにもしてやれなかった。だから、せめて最後に…恩返ししたくて…!」

「火積…」

地方大会で敗北した時でさえ、涙は流すまいと堪えていたのに。
部員たちの大きな想いを目の前にした今、嬉しさが溢れ出し―――抑えることができず、つい目を潤ませてしまった。

「…八木沢部長!」

新は耐え切れなくなったように泣きながら、八木沢に抱き着いた。

「オレ、寂しいよ!笑って見送りたいのにっ…そんなことできない!」

「水嶋…」

「ボ、ボクだって…!もっといっぱい、八木沢部長と演奏、したかった…!」

「伊織…」

部員たちは、次々に八木沢を取り囲み、皆一様に涙を流した。
そして、新幹線の発車を告げるベルが鳴る。

「………っ、いつまでもめそめそ泣いてんじゃねぇ!テメェら!」

火積は乱暴に顔を拭って、姿勢を正した。
部員たちもそれにならい、涙で濡らしたままの顔を上げる。

八木沢は、新幹線に乗り込んで彼らを見つめた。

「八木沢部員の―――前途を祝しまして―――」

発車のベルの音に負けないくらいの大きな声で、火積が音頭を取る。
涙に震えたその声で、それでも精一杯に張り上げて。

「フレ―――!フレ―――!八木沢部長!」

「みんな………!」

ドアが閉まり、新幹線がゆっくりと動き出す。
それでも、部員たちはずっと八木沢の方を見たまま。

新幹線がホームを後にするまで、彼らの声は、八木沢の耳に届き続けていた。

「(みんな…ありがとう…!本当に、ありがとう…!)」

流れ落ちる涙を拭いもせず、八木沢は心の中でずっとそう繰り返していた。

 

 

 

仙台から東京までは、長いようで短かった。

東京の電車は横浜より更にややこしく、学校がある駅にたどり着くのも一苦労。
それから更に学校に着いたのは、説明会開始時間ギリギリになった頃だった。

説明会が終わり、やっとのことでかなでに連絡する。

「小日向さん、今説明会が終わりました。これからホテルへチェックインする予定です」

『そうなんですか!よかった、無事に終わったみたいで。お迎えに行けずにすみません』

本当は東京駅に迎えに行きたかったのだが、午前中はパーティーの用意で忙しく、東京駅に行く時間がなかった。

「いいんですよ、夜にお会いできますし。…あなたに会いたい気持ちは山々ですが、なんとなくもったいない気もしてしまって…。夜まで、もったいぶることにします」

『ふふっ!私もおんなじ気持ちです。八木沢さんが近くにいるって思っただけで、すごくドキドキしちゃって…!』

「僕もです。なんだか緊張してしまいますね。…そうそう、今日は横浜で待ち合わせた後、どこに行くんでしょうか?」

結局当日になるまで、かなではどこに行くのか教えてくれなかった。当日までのお楽しみです、と言って。
当日になったのだから、もう教えてくれるだろう、と八木沢は聞いた。

『………ふふふ。行き先は、ゆずのはです!』

「…ゆずのは?柚木さんのお店…ですか?」

『はい。だから、八木沢さんには終電に間に合うように急いで帰ってもらわなきゃいけなくなっちゃうんですけど…大丈夫ですか?』

「え、ええ。時間は聞いていましたから、余裕を持って終電を調べておきましたが…小日向さんこそ、夜遅くに大丈夫なんですか?」

『はい、私は歩いて帰れますから。それに、律くんにも了解を取りました!』

「そうですか、それなら安心ですゆずのはか…」

『………?』

「ゆずのはって、そんな夜遅くまで営業してましたっけ…?」

『………っ!あ、あのあの!その…ちょっと、貸してもらったっていうか…』

「か、貸してもらった?!お店を、ですか?」

『は、はい。香穂子さんが、柚木さんにお願いしてくれて…』

「そ、そうなんですか。…わかりました。では、9時半に横浜駅に向かいます。…楽しみにしていますね」

『はいっ!私も楽しみにしてます!』

通話を終えて、直接ホテルへ行こうとしていた八木沢は、携帯で近くにスーパーがないか探し始めた。

 

 

 

「(う~…。緊張する…)」

夜、9時半前。
かなでは横浜駅で八木沢を待っていた。
頻繁に連絡を取り合っていたとはいえ、生身の彼に会うのは3ヶ月ぶり。たいした期間ではないかもしれないが、会いたい会いたいと思っていたぶん、とても長かった気がする。

季節もすっかり秋。
彼の秋の装いを見るのも初めてだし、自分の秋の装いを見せるのも初めてだ。

「こ、小日向さんっ!」

息を切らせた声で、そう聞こえた。
この3ヶ月、ずっと電話越しにしか聞けなかった彼の声が、確かに肉声で聞こえた。

「………八木沢さんっ!」

かなでは満面の笑みで八木沢に駆け寄った。
八木沢も、肩で息をしながら笑顔を見せている。

「お久しぶりです、小日向さん…!頻繁にやり取りしてましたから、久しぶりな気はしないと思っていたのに…。やはり、こうしてお会いできると、嬉しくて仕方ありません」

「八木沢さん…!会いたかった…!」

思わず抱き着いてしまいそうになったが、恥ずかしくてやめた。
夏に会った時から変わっていない互いの姿を見て、なんだか安心してしまう。

「余裕を持ってきたつもりなんですが、迷ってしまって。待ち合わせ時間に間に合って、よかった」

「ふふ、今回はお一人ですもんね。…じゃあ、ゆずのはに行きましょうか」

 

道すがら、八木沢は部員たちに見送ってもらったことを話した。

「………本当に、いい仲間をお持ちですよね、八木沢さんは」

かなでは八木沢の話を聞き、うっすら涙ぐんでいる。

「ええ。…彼らは、来年も全国大会を目指すでしょう。もちろん星奏学院のみなさん…あなたも」

「は、はい。そのつもりです!」

「彼らは、今年より何倍も何倍も上手くなる。そう確信しています。至誠館は手強くなりますよ?」

「っ…、望むところです!来年も、全力で挑ませてもらいますから!」

「ふふ。それはよかった」

八木沢は安心したように微笑んだ。

「あっ、お店が見えてきましたね」

「………香穂子さーん!」

ゆずのはの前では香穂子が待っていた。
香穂子も二人に気づいて手を振る。

「いらっしゃい、二人とも。八木沢くん、久しぶりだね!」

「はい、お久しぶりです。あの…香穂子さん。今日は、お店を貸して頂いたとのことで…」

「あっ、お礼ならオーナーに言って♪って言っても、オーナーもすごく乗り気だから、あんまり恐縮しないで?」

「あ、ありがとうこざいます…」

申し訳なさそうにしている八木沢に、香穂子は笑顔で言葉をかける。

「…じゃあ。かなでちゃんはお預かりして。八木沢くんは、ここでちょっと待っててもらえる?」

「す、すみません。ちょっと私…先に、入りますね」

「えっ…」

香穂子はかなでを連れて、先に店内に入ってしまった。
一人取り残されて首を傾げていると、香穂子たちと入れ替わりで柚木が店の外に出てきた。

「お待たせ。雪広くん、久しぶり。元気そうで何よりだよ」

「あっ、柚木さんっ…。お久しぶりです。あの、今日は…」

「はい、話はあとあと。さ、入って」

「え?え、」

ずいずいと背中を押され、八木沢は店内への地下の階段を下りた。

 

「(………あれ?)」

なんだか、前回来た時と店の様子が変わっていることに気づく。
奥のテーブルが片付けられ、キーボードや椅子が並べられていた。

「(どうしてお店にキーボードが…?)」

「はい、君の席はここ。…じゃあ、ちょっと待っててね」

キーボードが置いてある、小さなステージのように飾られた場所の前のテーブルに座るように言われた。

かなでも来ないし、何がどうなっているんだろう…。

「?!」

いきなり店内の電気が消えた。
何事かと席を立とうとすると、目の前に続々と人が集まってきた。
暗い中目を凝らすと、そこにはかなでの姿も。
よくよく見ると、ヴァイオリンを持っている。

と、目の前のスペースだけに照明が灯った。

八木沢は、目を見張る。

「………。今日は、八木沢さんの…専門学校合格の前祝いとして、演奏をさせて頂きます。…みなさんは、この日の演奏のためだけに、集まって頂いた…香穂子さんと、柚木さんの高校時代のお友達の方々です」

「?!………火原先生?!」

八木沢はどきりとした。
目の前には、確かに火原がトランペットを持って佇んでいる。
火原は小さく手を振った。

「(そ、そんな。なんで火原先生が…って、前祝い………?)」

かなでがキーボードの男性に目配せすると、ピアノの演奏が始まった。

♪~♪♪♪♪♪♪♪~♪~♪~…

八木沢は、唖然としてしまった。
どんなコンサートでも、CDですら、こんな完成度の高い演奏は聞いたことはない。

それもそのはず、ヴァイオリニストの日野香穂子。
学生時代はいくつものコンクールで、トランペットで入賞してきたという火原和樹。
全国大会でかなでたちにトロフィーを渡した、世界的ヴァイオリニストの衛藤桐也。
まさか、柚木がフルートを吹けるとは知らなかったが…。

どこかで見たことのあるヴァイオリンの男性も、ヴィオラの男性も。
チェロの男性もキーボードの男性も、クラリネットの女性もプロであろう演奏を奏でている。

一体、これは…

♪~♪♪♪~♪♪♪~♪♪♪~
♪♪♪~♪♪♪~♪♪♪~♪♪♪~…

………でも。
その中央でヴァイオリンを奏でるかなでが、一番光って、美しい旋律を奏でているように思えた。

その響きに、時を忘れたようにぼーっとしてしまう。

♪~♪~…♪~………

「………ありがとうございました!」

一礼するかなでに習い、一同も頭を下げる。
八木沢は、やっと現実世界に引き戻されたような心地で、拍手をした。

「す…すごい…!素晴らしいとしか、言えません…!」

一同は楽器を置いて、互いに顔を見合わせる。

「…ぐだぐだだな」

「ぐだぐだ…ですね」

「やっぱりブランクはどうしようもないよね~」

口々にダメ出しを始める彼ら。
ぐだぐだ?今のが?今ので?

「ごめんなー。おっさんたちの中には、ブランクある奴もいるからさー。大丈夫だとは思ったんだけど、やっぱ微妙だったな」

そう話しかけてきたのは、衛藤。
世界的ヴァイオリニストを目の前に、八木沢は言葉も出ない。

「…でも。彼女の演奏は、素晴らしかったな」

「(やっぱりこの方は、どこかで…)」

「月森くん、手加減してよ~。月森くんのペースで弾かれちゃったら、私たちがついていけるわけないじゃない!…でも、かなでちゃんの演奏だけはよかったよね♪」

「(月森…月森、そうだ!彼は…)」

「………」

ふとかなでの顔を見遣ると、かなでは顔面蒼白していた。

「こ…小日向さん…?」

「っ………。きんちょう、したあ…」

力無く八木沢にしなだれかかってくるかなで。
そうだろう、と八木沢も冷や汗を拭った。

「あははっ!八木沢くん、驚いたー?」

「火原先生…!なぜ、ここに」

「柚木に呼ばれてさ、仙台からひとっ飛び!本当はさ、きみもこっちに来るって聞いたから、一緒に来ようかな~って思ったんだけど!柚木がだめだ、って」

「だって、一緒に来てしまったら驚きが薄れてしまうだろう、火原?」

「そうだよね!八木沢くんの驚いた顔、見れてよかった~!」

「はいはい。じゃあ、星奏学院卒業生の方々は、あちらに」

「つーか、今日のギャラって出んの?」

「…出るか、バカ。お前、稼いでるくせにまだ金ほしいのか?」

「冗談だって。もー、梁太郎さんは相変わらず冗談通じないんだから」

「お腹空いた…」

「あ、志水くん。えと…柚木先輩がお料理出してくれるって…」

「月森くん、この前テレビ見たよ!きっちりDVDに録画したから!」

「…ありがとうございます…」

「柚木さん、いいですねこのお店。今度、職員たち呼んで食事したいんですが」

「大歓迎だよ。是非、ご贔屓に」

みんな思い思いに話をしながら、八木沢たちとは反対側のテーブルへ向かう。

「………」

「………」

「………あの」

八木沢が声をかけると、かなではやつれた顔を上げた。

「香穂子さんが…みなさんを呼んでくれたんですけど…。まさか…あんな有名人ばっかりだなんて…私も…今日初めてお会いして…」

「す…すごいメンツでしたね。知り合いでもないのに、こちらが一方的にお顔を知っている方までいらっしゃいましたし…でも」

八木沢はかなでの手を取り、続けた。

「素敵な演奏をありがとう、小日向さん。…あなたの音、僕の心の奥まで響いてきました」

「…八木沢さん」

「本当に驚きました。…これだけのパーティー、きっとずっと前から企画して頂いてたのでしょう?…あなたの気持ち、本当に嬉しいです。前祝い…とのことでしたが。きっと、特待で合格してみせます」

「…はいっ!全国大会の時の真似しちゃいました。けど、八木沢さんなら絶対合格しますから!」

「はい。お約束しますよ」

今日は、素敵な演奏を一日に二回も聞けた。
なんて幸せなんだろう、と八木沢は浸る。

「では、お料理をお持ちしますので、少々お待ち下さい」

柚木と香穂子が席を立ち、店内の一同に告げた。

「今日の残り物ですけどね!」

「………日野さん?」

「……………すみませんでした」

「あっ!」

と、八木沢が席を立つ。

「ん?どうしたんだい、雪広くん」

八木沢は柚木に近寄り、こっそりと耳打ちした。

「………え?大丈夫だけど」

「ありがとうございます。…では」

八木沢はかなでに向き直ると、言った。

「少しだけ、席を外します。すみません」

「えっ………え?」

八木沢は、柚木たちと共にバックへ行ってしまった。
一人取り残されたかなでは、反対側のテーブルにビクビクしながら過ごした。

 

「…お待たせしました。ごめんなさい、一人にしてしまって」

「あ…あああ、大丈夫です」

八木沢が席につくと、次いで柚木と香穂子が料理を運んできた。
二人は反対側のテーブルにビクビクしながら、料理をおいしく頂いた。

 

「やっぱりおいしいな、ゆずのはのお料理は」

「ですよね。私も、ゆずのはでアルバイトさせてもらえないかな…」

「それはいいですね。…僕も、こっちに住み出したら頼んでみようかな」

「もしかしたら、二人で働けるかもしれないですよね?!うわあ、頼んでみよう!」

ようやく反対側のテーブルに対する緊張感も解れてきた。

「そうそう、学校はどうでした?」

「ええ、新設されたばかりの学校ですので、きれいですし…理想通りの学校でした」

「よかった。春から楽しみですね!」

「はい。………そろそろ、大丈夫かな」

失礼します、と八木沢は席を立ち、柚木に声をかけた。

「………?どうしたのかな?」

 

「みなさん、今日は僕のために集まって頂き…素晴らしい演奏まで聞かせて下さって、本当にありがとうございました。これは、僕からのささやかなお礼です。どうぞ、召し上がって下さい」

「あ………!」

八木沢が、柚木と一緒に運んできたのは、デザートだった。
食事の前に席を外した時、これを作っていたのか。

「なんだこれ、すげー!」

「きれい…ですね…」

「本物のお花みたい…」

先にデザートが運ばれた反対側のテーブルからは、そんな声が聞こえてくる。

「…お待たせしました。どうぞ、小日向さん」

「あ、ありが………あっ!」

目の前に置かれた皿を見て、かなでは声を上げた。
これは…

「テッセン…?」

「そうなんです。あの夏、あなたと一緒に見た、テッセンの花です。それをイメージして、作ってみたんです」

あの夏、菩提樹寮に咲いていたテッセンをそのまま再現したような青紫の花びら。
その下は、透明の寒天が敷き詰められて、まるでテッセンの花を氷水に浮かべたように見える。
テッセンの花びらには、水飴が散らされ、まるで水を浴びたようにみずみずしい。

「す…すごい…!なんだか、食べるのもったいない…!あれ、八木沢さんの分は…?」

八木沢の前には、デザートが置かれていなかった。

「実は、材料は自分で持ってきたのですが…。まさか、こんなに人がいらっしゃるとは知らなくて、ゆずのはにあった材料を少しお借りしてしまったんです。あまり使わせて頂くわけにもいきませんから、少しだけ。だから、僕の分は省きました」

「えっ、でも…」

「いいんですよ。…試作段階で、いやというほど自分で食べましたから。…僕にとっては、小日向さんがそのデザートを召し上がる姿を見るだけで、デザートを頂いているようなものです」

「……………!」

ぽっ、と赤くなったかなでを見て、八木沢は微笑む。
かなでは、じゃあ、と言って、デザートを食べ始めた。

「………おいしい!」

「よかった。色が奇抜ですから、見た目のままの甘さを控えるのが大変だったんです」

「この色から、この味と食感は意外かも…!す、すごいです!たくさん研究されたんでしょう?」

「ええ、何度も作り直しました。…このお菓子は、特待試験で提出する予定なんです」

「あっ…そうか!はい、これなら絶対…っていうか、もう商品化できるんじゃ…」

「ふふ、まだまだですよ。でも、このお菓子を作ることができたのは、あなたがいて下さったからです。あなたとの思い出や、あなたへの想いが…作り上げてくれた」

かなでは、夏の記憶を辿る。
「演奏に花がない」と言われ、悩んでいた時…
さりげなく声をかけてくれて、相談に乗ってくれたのは彼だった。

最初は、いい人だなぁ、くらいにしか思わなかったのに。
いつの間にか、なんでもかんでも彼を頼り、一緒にいることで安心し、また楽しいと思うようになって。

音楽を蔑ろにしかけていたことを、叱責されて。嫌われてしまったのかと、すごくショックではあったが―――甘やかすだけではない、彼の強さにますます惹かれてしまった。
それから、気づいた。
敗戦校のメンバーに演奏の相談をするなど、どれほど残酷なことだったのか―――
八木沢が、部長だからという理由で、どれだけ辛い気持ちをひた隠していたのか。

それなのに、平気なふりをして、真剣に相談に乗り、自分を心から応援してくれたこと―――

八木沢に恋をしたのだと自覚するまで、時間はかからなかった。
自分から想いを打ち明けようとしたのに、まさか彼から告白されるなんて思っていなかったし。

本当に、私は幸せだ―――

「こ…小日向さん?どうか…されたんですか…?」

ぽたり、とテッセンの花びらに水が落ちたのが見えて、かなでの顔を見ると。
かなでは泣いていた。突然のことに驚く。

「ち、違うんです。私、嬉しくて…本当に、幸せだなぁって思ったら…」

「………。僕もです。あなたの涙を見ると心が痛みますが…あなたの嬉し涙は、美しいですね」

かなでは泣きながら顔を赤くして、ぶんぶんと首を振る。

それから、残りを惜しむようにして、デザートを食べた。

 

 

 

「楽しそうでしたね、柚木さんたち」

終電があるからと、八木沢たちは先に店を出てきたが…
星奏学院の卒業生たちは、これからお酒が入るらしく、朝までゆずのはにいるつもりらしい。
八木沢のデザートは好評で、商品化できるならぜひゆずのはの新メニューに追加したい、などと言われるほどだった。

何度もお礼を言って、店を後にしたが、
やはり二人ともまだいたかったというのが本音。

新横浜駅まで、話しながらゆっくり歩いたものの…
やはり、楽しい時間は過ぎるのが早かった。

「…45分の電車です。………」

「あと10分…ですか」

深夜0時前だというのに、若者で賑わう駅前。
二人は、その中に埋もれるようにしてぽつんと立っていた。

「…小日向さん。今日は…あなたに会えて、素敵なパーティーまでしてもらえて…本当に嬉しかった。ありがとう」

「私こそ。八木沢さんの作った和菓子、本当に美味しかったです。せっかく会えたのに…もう、お別れなんですよね…」

「東京には、また試験の日に来る予定です。合格したら…いつでも、好きな時にお会いできるんです。それに比べたら、離れてしまうのは、ほんの僅かの時間だから…」

「………っ!」

雑踏の中、二人を取り巻く時間だけは、止まったような気がした。
肌寒さに微かに震えていたかなでの体は、八木沢の温かな体温に包まれる。

「や、八木沢さんっ…」

今まで何度か手は触れ合ったものの、こんな風に抱きしめられたことなどない。
しかも、公衆の面前で。
夏には、森の広場でいちゃついているカップルを見ただけで、赤くなっていたのに。

「こんな大勢の人がいる中であなたを抱きしめるなんて…驚きましたか?」

抱きしめられたまま、耳元で囁かれて、かなではこくこくと頷く。

「こうして互いの感触を覚えておけば、きっと会えない間も耐えられると思うんです」

「………」

かなではゆっくりと目を閉じて、言った。

「…八木沢さんて、もしかして…むっつり?」

「………っ!」

ばっ!と八木沢の体が離れた。

「ぼ、僕は、そんなつもりでは」

「あははっ、冗談ですっ!もう、今更赤くなって」

「………ははは、本当にあなたは容赦ありませんね」

二人して笑った。

「…でも。私、ちゃんと八木沢さんの感触、覚えてます。次に会える時まで…」

「僕もです。…明日は、朝一番の新幹線で帰ります。あまりこちらに留まってしまったら、帰りたくなくなってしまいますから」

「あ…あの、私、東京駅に…」

「いいえ、送りはいりません。…でも、お願いがあります。また試験で東京に来る時は、東京駅で迎えて下さいますか?」

「………はいっ!」

「それでは…また。お元気で、小日向さん」

「八木沢さんも!…また、電話します!ブログも…っ」

八木沢は頷いて、かなでに背を向けた。

またすぐに会えるとわかっているのに、やはり別れの時は寂しい。
かなでは、寮に帰った後、少しだけ一人で泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

「小日向さん!」

息を切らせかけてくる八木沢。
かなでは微笑みながら振り向いた。

「す、すみません。また、地下鉄で迷ってしまって…」

季節は、あと少しで桜が開花するところまできている。

―――八木沢は、宣言通り、特待生として専門学校に合格した。
住む場所も決まり、引越も終わって…

ようやく落ち着いてデートができる、今日この日。

「私も、こっちに引っ越してきた時はそうでしたよ。でも大丈夫!半年も住めば、慣れます」

「上京の先輩にそう言ってもらえると、心強いですね」

特に目的地も決めていなかったが、二人はどちらともなく歩き出す。

「ダンボールも大方片付いたので…。今度、是非遊びにきて下さいね」

「もちろん!たくさん遊びに行きます!」

横浜と仙台。
会いたくても会えない距離にいた二人なのに、今はこうして当たり前のように肩を並べて歩いている。
…本当に、夢のようだ。

「そうそう、柚木さんに…アルバイトの承諾を頂けました。ただし、僕は裏方、とのことですが」

「本当ですか?!やったー!」

「仕送りは最低限にしてもらっていますから、やはりアルバイトもしないと。…越してきてすぐにアルバイト先が見つかるなんて、幸せですね」

「しかも、一緒のお店で働けるなんて!…うーん、でも…あんまりいちゃいちゃしないように、気をつけないと…」

「小日向さんは、香穂子さんのようになるような気がしますね。たやすく想像できてしまうな」

本望です!と言い切るかなでに、八木沢は笑う。

「…えーと。八木沢さん、こっちに越してきたら、お願いしたいことがあったんですけど…」

「…?なんでしょう?」

「えっと」

二人が歩くのは、港桟橋。
春の暖かな陽射しが、水面にキラキラと反射している。

「………そろそろ、私のこと名前で呼んでくれませんか?あと、敬語もストップ」

「あ………」

改めて言われて気づく。
…確かに、恋人同士なのに、いつまでも敬語で話すのは変だ。
でも、いきなり変えろと言われても、なんだか照れ臭い。

「………かなで、さん」

「さん、はナシ」

「………かなで」

八木沢は小さな声で言った。
首を摩るいつものクセ。

「…うふふ。なぁに、雪広?」

「!!!」

かなでを呼び捨てにするのも照れるが、かなでに呼び捨てにされるのも照れる。
こそばゆい、でも嬉しい感覚はなんだろう。

「………あっ、じゃあ、その。僕も…かなでに、お願いしたいことが…あるんだけど…」

わざと敬語を使わないように慎重に話す彼は、大変しどろもどろだ。
なに?とかなでは聞く。

「これ。火積たちにもらった、新幹線の回数券なんだけど…。その、もしよかったら…。5月の連休にでも、一緒に仙台へ行かないかい?」

「あ………!」

はにかみながら回数券を見せる八木沢。
…それはただ、行ってみない?というような軽い誘いではなくて…

「火積や水嶋たちもね。かなでに会えたら、きっと喜ぶと思う。…もちろん、僕の家族も」

「行く!絶対行く!」

ずっと大切にする―――
その言葉に、嘘なんてないから。

二人は仲睦まじく手を繋ぎながら、港桟橋を歩いた。

END