My wish |
ほらひなちゃん、ここが願いが叶うって言われてる噴水だよ ここのことだったんだ、いつも普通に通り過ぎてたよ ほら、コイン。これを噴水に投げ入れて、願いごとをするんだ ありがとう!じゃあ、やってみようかな 何をお願いするんだい? ふふっ、ナイショ! 「………仕方ないね」 「……………」 部活が終わってから、ずいぶんと時間が過ぎた。 ここはオケ部の部室。部活が終わってからずっと、大地とかなではここで話をしていた。 といっても、会話より無言だった時間の方が長かったが。 外は昨日積もった雪で真っ白になっている。 下校時間が過ぎているから暖房も止められてしまい、室内といえど寒い。 …でも。 そんな寒さは気にならないくらい、この部屋の空気は張り詰めていた。 今日、二人がしている話は、 ―――別れ話だ。 「…受験だなんだって君をほったらかしにしてしまった時もあったからな。…君がそういう決断をするのも、仕方ない」 「………」 ケンカをした、とか 浮気をした、とか そんな明確な理由があった方が、まだマシだったかもしれない。 かなでは、本当に突然、大地に別れを告げた。 理由を聞いても、かなでは「別れたい」としか言わない。 いっそ、「好きな人ができた」とでも言われた方が、この心のもやもやも晴れたのかもしれない。 「…じゃあ。私、帰ります」 「ああ。随分遅くなってしまったからね。路面も凍結していて危険だから、気をつけて。…本当は、君を寮まで送っていければいいんだけど」 それも… もう俺にはする資格ないよね。 大地は、低めのトーンでそう言った。 「………。さようなら」 「うん、さよなら」 “さよなら” こんな辛い意味合いでこの言葉を言うことになるなんて、思わなかった。 俺は、ひなちゃんより年上だから。 なんでも平気な顔をして、余裕を見せて…。 本当は、いつも余裕でいられるわけでもないのに。 受験で切羽詰っていた時も、彼女の前で落ち込んだ顔をすることも、疲れた顔をすることもなかった。 いつでも、笑顔で。 いつでも聞き役に徹して、冷静な判断をしながら相槌を打って…。 背伸びをするのは、わざとというわけじゃなかったんだ。 いつでも君が安心していられる場所を、俺が作ってやりたかった。 そして、別れを告げられた時も、さして驚くこともなく、さらりと流して。 本当は。…本当は、みっともないくらいに君に縋って、別れたくないと、見捨てないでくれと、懇願したい気持ちでいっぱいだったのに。 「―――………」 自室のベッドに、電気もつけず横たわる。 左手で目を覆うと、そこに浮かんでくるのは、彼女と過ごした楽しい日々ばかり。 「どうして…」 どうしてこんなことになってしまったのだろう。 付き合いたては、こんな未来を想像すらしていなかったのに。 それは、そうだ。 誰だって、付き合いたてに別れる日のことなんて、想像しない――― 「本当に…バカだ。俺は………」 「くうん」 力なく呟くと、至近距離でモモの声がした。 大地は起き上がって、自分の傍らを見遣る。 「…モモ。いつからいたんだい」 自室のドアは開けっ放しだったから、気づかないうちに入ってきたのだろう。 普段は犬小屋で寝かせているが、雪や雨が降る日は家の中で寝かせている。 「くうん…くうん」 いつものように甘えてくるモモの声とは違う。 尻尾も振られてない。 ペットは飼い主の心情の変化に敏感だというが、もしかしてモモも大地の胸の痛みを察知しているのだろうか。 「…心配してくれているのかい」 「くうん」 目を覆っていた左手でモモの頭を撫でる。 途端によみがえる、彼女の髪の感触。 『本当に可愛いなあ、ひなちゃんは』 『もう!大地先輩!子供扱いしないで下さいっ!』 そう言って、頬を膨らませて。 でも嬉しそうなかなでの顔が、脳裏を過ぎる。 ああ…。 君は、こんなにも俺の中に君を残して。 「…もしかして、ひなちゃんと遊びたかったのかい。今日もひなちゃんが遊びにくると思ったのかな」 かなでも、モモをたいそう可愛がっていた。 大地の家に来ると、大地そっちのけでずっとモモと遊んでいたくらい。 そんな光景を、微笑ましく、少しの嫉妬も交えつつ見るのが好きだった。 でも――― 「ごめんよ、モモ。………ひなちゃんは、もう俺たちの家には来ないんだよ」 「くうん」 そんなのイヤ、とモモが言った気がした。 同時に、なんで?と言っているような気もした。 なんで…か。 なんでなんだろう。 俺にもわからないよ、モモ。 「………っ」 つう、と一筋の涙が頬を伝う。 泣けるほど、好きなのに。 こんなにも彼女が好きなのに、 ―――俺は、彼女を繋ぎとめることすら、できなかった 「………なぁ」 「………」 「律。…かなでと大地、別れたんだって?」 「………そうらしい」 二人が別れたという噂は、瞬く間に周囲に広がった。 本当に、人はこの手の噂話が好きだ。 どっちから切り出したんだろうとか、原因は何かとか。 大地の浮気が原因だの、かなでの浮気が原因だのという具体的で根も葉もない噂まで出てくる始末。 もともと二人とも異性にモテるものだから、二人が別れたことを知り、嬉しがる生徒も少なくなかった。 彼らのことを心配するのは、彼らと本当に仲が良い一部の人間だけで。 「…なんでだろうな。仲良かったじゃん、あいつら」 「………。人の恋愛にどうのこうのと口を出す権利はないが…。仲睦まじかっただけあって、こちらまで落ち込んでしまうな」 如月兄弟は一人で練習をしているかなでを見ながら、そんなことを話していた。 「大地せんぱーい、ここ教えてもらえませんかー?」 「ああ、いいよ。どこだい?」 ここぞとばかりに大地に接触する女子生徒もいる。 以前は、かなでの手前遠慮していたのだろうが… 「………かなでは明らかに失恋しましたーって感じなのにさ。大地のヤツ、けろっとしてるよな」 だからあんなのに目つけられるんだよ、と響也は顔をしかめる。 響也はかなでの幼馴染。小さい頃から一緒だった彼女を悲しませている男には、少なからず思うところがある。 それでも怒らないのは、二人の間にしかわからない事情があることをわかっているから。 「…響也にはそう見えるか」 「は?そう見えるか、って…。どういうことだよ」 「俺には、大地がとても辛そうに見える」 「ええっ?!そうかぁ?」 「じゃー、このプリントを回してくれー」 季節はもう2月。 3年生はもうとっくに部活を引退しているが、律や大地だけは任意で部活を手伝いにきている。 まだ部長は決まっていない。だから、それまでの仮部長として、響也が律の代役を務めている。 響也自身は、絶対に部長はやりたくないらしいが。 「あっ…」 かなでの手前で、プリントが足りなくなってしまった。 取りに行かなきゃ、とかなでは席を立つ。 「はい」 プリントを差し出してきたのは、…大地だった。 かなでは躊躇いがちにそのプリントを受け取る。 「…ありがとう、ございます」 「どういたしまして」 他の人に接するのと変わらない、誠実な笑顔で大地は言った。 …二人が別れたことについて、様々な噂はされているが。 どちらかというと、「かなでが大地に振られた」という噂の方が多いようだ。 それは、大地が何もなかったかのように振舞っているから。 かなでが大地に遊ばれたんだ、と言う人もいる。 大地自身、そんな噂をされていることを知っていた。 …本当は、振られたのは大地の方なのに。 でも、それならそれでよかった。 自分が悪役になって済むのなら、と。 「じゃあモモ、少しここで待っているんだよ」 駅前のスーパーの前で、大地はモモのリードを電柱に巻きつけていた。 母親に頼まれ買い物に来たのだ。 モモを店内に連れていくわけにいかないので、寒いが外で待ってもらうことにする。 「少し時間がかかるけど、いい子にしているんだよ」 大地を見送り、しばらくは尻尾を振っていたモモだったが、やがて大地の姿が見えなくなると、諦めたように地面に伏せた。 「………。………!」 と、モモが素早く立ち上がった。 それから、激しく尻尾を振る。 はっ、はっ、と嬉しそうに舌を出して、モモは歩み寄ってきた人物を見上げた。 「………モモちゃん」 かなでだった。 駅前の楽器屋に寄った帰り、このスーパーに来たのだった。 だが、スーパーの前まで来てモモがいることに気づき、同時に大地もこのスーパーに来ているのではないかということを知る。 「誰と一緒に来てるのかな。大地先輩?」 「わんっ!わん、わんっ!」 頷くように吠えて尻尾を振るモモ。 かなでは微笑んで、モモの頭を撫でた。 「…モモちゃんのこと撫でてあげられるのも、これが最後かな」 「………」 「私と大地先輩ね。別れちゃったの。…だから、もう一緒にいることはできないんだよ」 「………」 「…寂しいな。モモちゃん、私とたくさん遊んでくれたのにね」 「くうん」 モモは尻尾を落ち着けた。 …かなでの気持ちが伝わったのだろうか。 「モモちゃん。………私ね、」 「やあ、お待たせ。いい子にしていたかい?」 「わんっ!わん!」 買い物を終えてスーパーから出てきた大地に、モモはおかえり、というように尻尾を振った。 「よしよし、寒かったろう?帰りは走って体を温めるか?」 なんて、荷物があるからそれは無理だけど、と笑う。 「わんっ!わんわんわん、わんッ!」 「おいおい、どうした?なんだか遊んでほしくてたまらないって感じだな」 モモはしっかりしつけてあるので、滅多に大きく吠えることがない。 なんだか興奮しているようだ。 「うーん…。遊んでほしいってより、話を聞いてほしいって感じの鳴き方だね。でもごめんよ、さすがに犬語はわからない」 「くうん」 おどけて言うと、モモは残念そうに鳴いた。 モモの方は人間の言葉がわかるのかい?なんて話しながら、大地は帰路を辿った。 「………あっ。ほら、モモ。噴水だよ」 駅前の、「コインを投げ入れて願いごとをすると叶う」という噂で有名な噴水。 大地はその前で立ち止まった。 「(…ここにも。前に、ひなちゃんとモモとで来たことがあったっけ)」 『ほらひなちゃん、ここが願いが叶うって言われてる噴水だよ』 『ここのことだったんだ、いつも普通に通り過ぎてたよ』 『ほら、コイン。これを噴水に投げ入れて、願いごとをするんだ』 『ありがとう!じゃあ、やってみようかな』 『何をお願いするんだい?』 『ふふっ、ナイショ!』 「………」 また、彼女との楽しかった想い出を思い起こして、大地は目を閉じ、立ち尽くした。 あの時… 彼女は一体、何を願ったのだろう。 それも聞けないまま、違う道を辿ることになるなんて…。 あの頃の俺は、願いごとなど何ひとつなかった。 だって、大好きな君が俺の隣にいてくれたから。 他に望むものなんて、何ひとつなかったんだ。 けれど今は――― 「…そうだ、モモ。今日は一緒に願いごとをしていこうか?」 「わん!」 大地は財布から2枚コインを取り出すと、それを噴水に向かって投げた。 「ほら、モモ。願いごとをしてごらん」 「………」 モモは「伏せ」の格好をした。 本当に何か願いごとをしているように見える。 「(叶うなら…。大好きな人と、ひなちゃんと、もう一度―――)」 願いをかけても、叶わないことなどわかっている。 こんなところで願いごとをするなら、もっとできることがあるということも。 けれど今は、非科学的な何かにまで縋りたいほど、心は傷ついている。 「(卒業式まで…。あと2週間、か)」 二人が別れてから、2週間ほどが過ぎた。 そして、卒業式まであと2週間。 二人はもともと普通科と音楽科。学年も違う。 別れてみれば、驚くほど共通点がなかったことに気づかされた。 今まで、どんなに互いが一緒にいたいと思って一緒にいたのか。 さすがに卒業が近いということで、大地も部活に顔を出すこともなくなり――― 卒業すれば、「同じ学校」という共通点すらなくなり、本当の「別れ」が訪れる――― 「(本当にいいのか、それで)」 今でもかなでのことは好きだ。 それこそ、どんな手を使ってでも彼女とやり直したい。 自分に悪いところがあったなら、全て直すから。 そう思っても、かなでに別れを告げられた理由を聞き出すことすらできないでいた。 それは――― 未練がましい姿を見せて、更に嫌われるのが怖いから。 別れを告げられたということは、とうに嫌われているということ。 それなら、もうどんな姿を見せたって構わない。そう思っているのに…できない。 「(俺がこんな意気地無しだと知ったら、ますます嫌われてしまうんだろうな…)」 自嘲して、正門前から彼女がいるであろう音楽科棟を見つめる。 そのまま俯いて、 …大地は学院を去った。 「……………」 ベッドの上で、気だるげに寝返りを打つ。 かなでと別れてから、何をするでもなくベッドで寝転がることが増えた。 彼女と別れる前は――― このベッドの上で、愛しい彼女の体を抱きしめて眠りにつくのが好きだった。 今では、空いてしまった左腕の上。 それを否定するように、投げ出していた左腕で目を覆う。 「ひなちゃん…」 いくら愛しい彼女の名前を呟こうと、 …返事は返ってこない。 「なあに?大地先輩」 ………。 ………?! 大地は、声のした方向に体を向けた。 そこには――― 「大地先輩」 「ひ…ひな…ちゃん…?!」 そこには、確かに。 かなでがいた。 薄暗い部屋の中でも、学院の制服を身にまとい、愛らしい微笑みを浮かべた彼女の顔がよく見えた。 彼女は―――紛れもなくかなでだ。 「な…、なんで…、ひなちゃん…!」 ここは大地の部屋。 かなでが無断で入ってくるわけもない場所。 なぜここに彼女がいるのか、そんな疑問より先に、 一番会いたかった人が目の前に現れ、大地はそれだけでも胸がいっぱいになっていた。 「ひなちゃん…」 「………」 かなでは大地を見つめたままにこにこと微笑んでいる。 別れる前、いつも見ていた彼女の笑顔。 別れた後は、全く見られなくなってしまった彼女の笑顔。 「………ひなちゃん。君に聞きたいことが、言いたいことが山ほどあるよ」 あれだけかなでに話を聞くことを恐怖していたのに。 大地は、自分でも驚くほど心が素直になっていくのを感じていた。 「なあに?」 「………君は、もう俺のことを嫌いになってしまっただろう。どうして会いにきてくれたんだい?」 「………。嫌いなんかじゃない。大地先輩のこと、大好きだよ。今だって、大地先輩のこと、大好き」 「………」 都合のいい幻なのではないかと思った。 そうであってほしい―――大地の願望がそのまま、現実になったような。 「…でも。それなら君は、どうして俺と別れたがったのかな」 「………」 かなでは少し悲しそうな顔をして、お腹のあたりに手をやった。 それから、慈しむような優しい手つきで撫でる。 「私は…。私のお腹には…。大地先輩の赤ちゃんがいた」 「………えっ」 「………」 「なん…だって。ど…どうして。一体…!」 「………」 かなでは悲しげに微笑んだまま、何も言わない。 ひなちゃんのお腹に…俺の…?! 衝撃的な言葉に混乱したが、大地は精一杯冷静を取り戻す。 「それが…、君が俺と別れた理由なのかい?!」 「………」 「ひなちゃんっ…!」 大地がかなでの腕を掴もうとすると、その手はむなしく宙を舞った。 かなでは後ずさって、大地の部屋から出ていこうとした。 「ひなちゃん…っ、待ってくれ!」 大地はベッドから体を起こして、かなでを引きとめようとした。 …しかし、体が動かない。金縛りにでも遭ったように、大地の体はベッドから起き上がることができなかった。 「ひなちゃんっ…!」 かなでは、無情にも部屋を出ていく。 大地の声に振り向くこともなく。 「ひな…ちゃん…!」 大地は、唇を噛んで目を閉じた。 「………わんっ!わん、わんっ!」 「………」 気がつくと、ベッドのそばでモモが吠えていて。 その声に、大地はゆっくりと目を開けた。 そして、眠ってしまっていただけだったと気づく。 かなでが部屋を訪れて、話をしていったこと―――あれは、全て夢だったのだ。 「………はは。そうだよな…」 都合のいい夢。 かなではまだ大地のことが大好きで。可愛らしい微笑みを見せてくれて。 「わんっ!」 気づいて、というように吠えるモモに視線を移し、体を起こす。 尻尾を振るモモの頭を撫でた。 「…モモ。ひなちゃんの夢を見たよ。…君も俺の夢の中にいたら、ひなちゃんと遊んでもらえたかもしれないのにね」 「…くうん?」 くす、と笑う。 あんな夢まで見るとは、もうかなりの末期らしい。 …と、大地ははっとする。 「(夢の中のひなちゃんは…。確か、『大地先輩の赤ちゃんがいた』と言っていた…)」 あれは一体、なんだったのか。 自分の見た夢なのだから、考えたって仕方がないが… …かなでとは、避妊をしないで何度か行為をしたことがあった。 でも、妊娠したなどという話をされたことはなかった。 自分の見た夢、それにはなんの信憑性もないのに。 大地は、だんだん気がかりになってきた。 「(もし、ひなちゃんが本当に妊娠しているのだとしたら…)」 自分に迷惑をかけまいなどと考えて、いきなり別れを告げてきた…? だんだんと、心の中に焦りが浮かんでくる。 ただの夢の内容なのに。どうして、こんなに気になるんだ。 ただの夢だけれど、もし。 もし、あれが本当だったとしたら――― このままでいるわけには、いかない―――! 大地はコートを羽織ると、部屋を飛び出していった。 「………っ、すみません!」 大地は菩提樹寮まで走ってきた。 それから、エントランスから大声で人を呼ぶ。 「はい、………大地?」 律だ。 息を切らせてエントランスに立ち尽くしている大地を見て、唖然としている。 「どうした?」 「…っ、ひなちゃんはっ…」 「小日向か?もう帰ってきていると思うが。…上がっていいぞ」 「すまない」 律に案内されて、大地はまずラウンジへ向かった。 「響也、小日向は帰っているよな」 「あ?ああ、部屋にいるんじゃないか。…あれ、大地?なんでいるんだ?」 大地の姿を見て、響也は驚いた顔をしていた。 それからすぐに、かなでに会いにきたのだと悟る。 「…ひなちゃんに話をしにきた。女子棟に入ってもいいか?」 「本当は、寮母さんに許可を取らなければいけないんだが…。今日はもう帰ってしまっているんだ」 「………」 「………。女子棟へ入るのは、俺が許可しよう。もし何かあったら責任は俺が負うことになる、大地、わかっているな」 律は大地を見据えて言った。 「ありがとう、律。…大丈夫だよ、俺はちょっと話をしにきただけなんだ」 友人の気持ちに感謝して、大地は女子棟へと向かった。 コンコン… 「………はい」 ノックの音に、かなでは返事をする。 確か、ニアはまだ帰宅していなかったはずだが、今帰ってきたのだろうか。 いや、もしかしたらニアではなく、他の人かもしれない。 「…だれ?」 「…ひなちゃん。俺だ」 「大地…先輩…?」 名前を聞かなくとも、声を聞いただけでわかってしまう、愛しい人の声。 かなでの胸はぎゅうぎゅうと締め付けられ、痛んだ。 「なんで…。大地先輩が…ここに…」 「君に聞きたいことがあるんだ。…頼む、入れてくれないか」 「………」 かなでは迷っていた。 きっと、大地の話とは別れたことについての話だ。 かなでは絶対にその話をするつもりはないし、大地とは極力接触しないように決めた。 だから、絶対にこのドアを開けてはいけないのに。 ずっと耐えてきた。…大好きな人と一緒にいられないことを。 その反動で、会いたい、一目彼の姿を見たいという衝動を抑えきれない。 「…君に、ひとつだけ。たったひとつだけ、聞きたいことがあるんだ。それを聞いたら、すぐに帰るから。…お願いだ」 「………」 かなではドアを開けてしまった。 本当にひとつだけ聞かれたら、絶対にすぐ帰ってもらおうと決めて。 「…ひなちゃん」 久しぶりに間近で見る彼女の姿。 やはり愛しい。今でも、すぐ抱きしめてしまいそうになるくらい。 だが、かなではやはり元気がない顔をしている。夢に現れたかなでとは、まるで別人かのように。 「………ひとつだけ、なんですね」 「ああ。………ひなちゃん。君は、…妊娠しているのか?」 「―――えっ」 まさかそんなことを聞かれるとは思っておらず、かなでは激しく動揺した。 そしてそれは、…否定の意味ではないことを示していた。 「ひなちゃん…」 途端に青ざめて俯いてしまったかなでに、それが肯定の意味であることを悟った。 まさか、とか。うそだ、とか。彼女の口から知らされていたら、そんなふうに思っていたかもしれない。 けれど、大地は自分でも不思議なくらい、驚かなかった。 「そうなんだね…?」 「………」 かなでは俯いたまま、ふるふると首を振る。 しかし、それはもう偽りだと大地にはわかっていた。 「ひなちゃん。ちゃんと話してくれ」 「………!」 かなではぶんぶんと首を振った。 なんで なんで なんで なんで大地先輩が、それを その想いだけが、かなでの心を占めていた。 「君が妊娠していることを知ったら、俺が君を捨てるとでも思ったのかい。迷惑をかけるとでも思ったかい。…俺は嬉しいよ。だから、きちんと話をして」 「………っ!」 “嬉しい” その言葉に、かなでの胸がずきりと痛む。 大地は、そんなかなでの姿を見ていられず、思わず彼女を抱きしめた。 「ひなちゃん…。一人で悩んで辛かったんだろう。…俺に話してくれ、全部。そして、これから俺たちがどうするか、一緒に考えよう。もちろん、お腹の子は一緒に育てて」 「………の」 「え…?」 かなでが小さく呟いた言葉。 大地の胸で、かなではすすり泣いていた。 「ひなちゃん…?今、なんて…?」 「もう………いないの。赤ちゃんはもう…、私のお腹にいないの」 「………どういうことなんだい」 「私が 大地先輩の赤ちゃんを殺してしまったの」 『モモちゃん。………私ね、』 誰にも話すまいと決めていた。 でもあの日、モモを見かけて――― かなでは、辛い胸の内を、モモに打ち明けていた。 『大地先輩の赤ちゃんを妊娠したの。…でもね。赤ちゃんは、死んじゃった。…私が、殺してしまったんだよ』 モモは、かなでの話を真剣に聞いているように、まっすぐかなでを見つめていた。 『だからね…。私、大地先輩と別れるって決めた。私は、大好きな人の赤ちゃんを殺してしまった。私はもう、大地先輩と一緒にいる資格はないの』 『…くうん』 そんなことない、とでもいうような鳴き方をした、と感じたのは、かなでが自分でそう思い込みたかったからだろうか。 『大地先輩のことは、今でも大好き。本当に大好き。別れたくなんかなかった。できるなら、ずっと一緒にいたかった。…でも、そんなこと許されない』 あれは―――1ヶ月ほど前のこと。 『生理…、こない…』 生理が2ヶ月きていない。 最初の1ヶ月目は、ただ不順になっているだけだと思い込んでやり過ごしたが… 2ヶ月遅れたことは今までになかったから、これはまさか、とかなでは焦った。 考えてみれば、何度か大地とは避妊をせずに行為をしてしまったことがあって。 でも、そんな簡単に妊娠しないだろう、とも思っていた。 世間で言われている妊娠の兆候は特に現れていなかったが、かなでは念のため妊娠検査薬で検査を行った。 『陽…性…!』 検査結果には、「妊娠している」という結果が現れていた。 そんな、まさか。 私はまだ高校生なのに。大地先輩だって、まだ高校生。 学生で、未成年である自分が、こんなことになるなんて。 最初は混乱して、不安になって、呆然とその検査結果を見つめていたが… 『………。ここに…』 無意識に下腹を触った。 大好きな人と愛し合った証が、今ここにある。 大好きな人の赤ちゃんが、私のお腹の中にいる。 そう考えたら、なんだかとても嬉しくなって。 問題は山ほどあるというのに、そんなことも考えず、かなでは幸せな気持ちでいっぱいになっていた。 そして、大地に話さなければ、と考えた。 でも… 『(大地先輩は、今受験のことですごく忙しくて…)』 大地は外部受験、しかも医大の受験だ。 昨日センター試験が終わったばかりで、今度は二次試験の受験日に向けて追い込みをかけている。 大地なら心配ないとも思うが… 大地は、自分の弱みを絶対にかなでに見せない。 どんなに辛くても苦しくても、余裕があるように見せている。 もしかしたら、かなでは気づいてないと思っているかもしれない。でも、大好きな人の心情の変化くらい、かなでにもわかっていた。 無理して余裕を見せてまで接してくるのは、自分のことを想ってくれているからだと気づいていて… きっと、今すぐにこの話をしたら、大地は受験の追い込みなどほったらかして話を聞いてくれるだろう。それがわかっていたから、かなではこう決めた。 『(大地先輩の試験が全部終わったら、話そう…!)』 本当はそんなことをしている場合ではない、一刻も早く話をしなければいけないということだってわかってはいた。 けれど、かなでは話さなかったのだ。 二次試験が終わるのは、1週間後。 それから打ち明けよう――― かなではすぐに病院に行った。 一人で行くのは恥ずかしかったし怖かったが、あまり人に話せることでもなかったから、ニアにも話すことなく、一人だけで病院に行った。 『おめでたですね』 検査薬の結果通りのことを言われた。 病院に来て結果を告げられたことで、おぼろげだった現実がようやく事実なのだと気づかされたような気がした。 とりあえず、その日は他に何もせず帰ってきた。 もし産むつもりなら、次に来た時にでも母子手帳を発行すると言われた。 『お疲れ様、大地先輩』 『ありがとう、ひなちゃん』 二次試験が終わって、大地はようやく受験から解放された嬉しさで顔を綻ばせていた。 『このところ、勉強ばかりであまり君と一緒にいられなかったからな。今日からは、今までの分を取り戻せるくらい一緒にいたいんだけど…』 ようやく、大地にあの話ができる。 かなではドキドキしていた。 『…けど、今日一日だけ待ってほしいんだ。ちょっと、答え合わせをしたくてさ。…いいかな?』 『あっ…、そうですよね。…わかりました』 今すぐに話せると思ったのに、大地は今日だけ待ってほしいのだという。 少し気が抜けたが、彼に打ち明けるのはとても勇気がいること。一日だけ猶予ができて、かなでは少し安心していた。 『じゃあ、また明日ね。ひなちゃん』 その日の夜。 眠っていたかなでは、下腹部の鈍痛で目を覚ました。 寝ぼけまなこのままトイレに行く。 『う~ん…。あっ』 生理がきちゃった、と思った。 下着には、真っ赤な血のかたまりがどろりと付着している。 これだけの出血量なら、もしかしたらパジャマやベッドにもついてしまっているかもしれない。 やっちゃった、と思って、パジャマのズボンを確認した時だった。 ………え? そんなこと、あるはずがない。 生理がくるはずない。だって、かなでは、 さあっとかなでの顔が青くなった。 なんで? 私は妊娠しているのだから、生理がくるはずがないのに。 いつもより鮮やかで、多量の血液に気分が悪くなる。 だんだんとお腹の痛みも増していっているような気がした。 まさか、まさか 考えたくない悪い予感に支配される。 かなでは、朝までトイレの中でうずくまり、泣いていた。 次の日。 出血が止まらないので、ナプキンをして、朝一で病院へ駆け込んだ。 もちろん、学校など行けるはずがない。 そして、診察の結果――― 『残念ですが…』 その言葉を聞いて、かなでの目の前が真っ暗になった。 流産。 『自然流産に近い形ですから…、処置はいらないと思われますが』 『わああっ………!』 かなでは半狂乱になって泣き叫んだ。 看護士や医師に宥められても、なかなか涙は止まらなかった。 昨日まで、なんともなかったのに。 どうしてこんな、突然! 『私が…、私が赤ちゃんを殺してしまった!大地先輩の、赤ちゃんを…っ!』 小さな命を失った、小さな少女に、医師は穏やかな声で語りかける。 『小日向さん、あなたのせいではないんですよ。初期流産の原因は、受精卵の染色体異常など、6、7割赤ちゃん側に原因があるんです。弱い受精卵はそれ以上育つことができず、こうして流れてしまうことがあるんです』 『………っ』 かなではぶるぶると首を振った。 違う。私のせいだ。私の。 『…それにね、小日向さん。君はまだ高校生で、若く健康だ。これから、また赤ちゃんを授かれる可能性は、たくさんあるんだよ』 看護士は、かなでの肩を抱きながら、優しく撫でてくれている。 年配の女性の看護士。 同じ女性同士、心の痛みをわかってくれているのか、彼女は優しい声で言った。 『こんなふうに言っていいのかわからないけど…。今回のことは、赤ちゃんの決断だったのかもしれないわよ?』 『赤ちゃんの…決断…』 『そう。あなたはまだ高校生で、これからやらなければいけないこともたくさんある。あなたのパートナーだって、まだ学生さんなんでしょう。あなたたちが赤ちゃんを育てていくには、まだたくさん問題がある年齢でしょう。もしかしたら、赤ちゃんはまだ出てくる時期じゃないって、そう考えた考えたのかもしれないわよ。…パパと、ママのことを想って』 『……………!』 看護士の言葉に、心を打たれる。 もし、そうだったのだとしても――― 私は、産んであげたかった。 大好きな、大地先輩の赤ちゃんだもの。 それでも確かに――― かなでたちには、まだ人一人育ててゆくだけの力がないということも事実だった。 それなのに、好きだから、愛してるからと理由をつけて… 無責任な行為を許した結果、こんなことに。 『(ごめんなさい。赤ちゃん、ごめんなさい………!)』 ふらふらとした足取りで、かなでは寮に戻った。 そして、考えたことはひとつ。 『大地先輩と、…別れよう』 私は赤ちゃんを殺してしまった。 大好きな人の赤ちゃんを。 そんな私が、もう彼と一緒にいられる資格など、ないもの。 私はずっと、償うことのできないこの罪を背負っていかなければならない。 赤ちゃんができたことは、二人の責任だ。けれど、この罪を背負うのは私一人で充分。 大地先輩には、何も知らないまま…生きていってほしい。 大好きな人だからこそ、何も知らないまま――― 「……………」 泣きじゃくりながら語ったかなでの話を聞き、大地は絶句していた。 …そんなことが。 こんなに小さくて、子供みたいな彼女が、 女性として一番辛い経験をし、自分の知らないところで苦しんでいただなんて。 いや… 気づいてあげることはいくらでもできたかもしれないのに。 かなでに突然別れを告げられて、辛いだとか、まだ彼女のことが好きなのにとか、そんなことぐらいしか考えなかった。 なんて愚かなんだろう どう謝ったらいいのか、謝罪の言葉すら出てこない。 大地は、ただただかなでを強く抱きしめた。 「だから…、私は。もう、大地先輩と一緒にいる資格なんて、ないんです…!」 かなではずっとそればかり繰り返している。 大地ははっきりと言った。 「そんなことない」 「………っく、だって…っ」 「…俺にはひなちゃんが必要なんだ。君に別れを告げられてからも、ずっと君のことが好きだった。愛していた。君がいない毎日は、死んでしまいそうなくらい辛かったんだ」 「え…」 「辛すぎて、泣いたことだってあったよ。君は俺のことが嫌いになって、別れると言ってきたのだと思っていた。別れる理由を問いただしたくても、これ以上君に嫌われるのが怖くて、できなかった。…本当に俺は、意気地なしだよ」 「………っ。………」 大地の本心を聞いて、かなでは彼がこんなに自分を想ってくれていることを知り――― 更に罪悪感を煽られた。 こんなに想ってくれている人の赤ちゃんを、私は、と。 「君がこんな…こんなに辛い思いをしていたというのに。本当に俺はバカだよ。本当に………!」 「………!」 大地の声が震えたことで、かなでははっと彼を見上げた。 …大地が、泣いている。あの、いつでも笑顔で、余裕があって、泣くことなんてないと思っていた彼が。 大地の涙に煽られて、かなでもまた激しく泣き始める。 …どうして言ってくれなかったんだ、なんて言えない。 かなでは言えなかったんだ。妊娠したことも、流産したことも。 いつも余裕を見せている大地だって、余裕のない時もあるなんてことはとっくに見抜かれていて。 余裕がなくても、大地が他のことに打ち込んでいる時だって、なんだって言ってくれてもちよかったのに、そうも思う。 でも、大地が無理をして本当の気持ちを隠しているのと同じように、かなでもまた自分の本当の気持ちを打ち明けられなかった――― その基盤を作ってしまったのは、大地だ。 妊娠のことだって、彼女が愛しすぎるあまり、「避妊しないでいいよ」という彼女の言葉にそのまま従い、行為を行ってしまった。 考えれば、それがいけないことだなんてすぐわかるのに。 流産のことは、医師や看護婦の言った通り、かなでのせいではないのだろう。 それなのに、彼女はこんなにも傷ついて、自分を追い詰めて――― 「本当に…。なんて謝ったらいいのかわからないほどに、俺はバカだよ」 「…なこと、な…」 「それでも、もし…。君が許してくれるというのなら、俺は…。これからもずっと君のそばにいて、君を傷つけ追い詰めた罪を償っていきたい」 「え………」 大地はかなでから離れ、彼女の目をじっと見つめた。 この日まで、どれだけその大きな瞳から涙を流してきたのだろう。自分が拭える、拭わなければいけない涙なのに、彼女の心に溜まってく一方だった涙を。 「俺みたいな頼りにならない男はいやだ、と言われてしまうかもしれないね。けれど、君の気持ちを無視してでも、俺は君と一緒にいたいと思う。…そしていつか、俺が君を充分に養ってあげられる環境が整った時、産んであげられなかった俺たちの子供を、………また」 「………!」 「ごめん…。本当に、ごめんよ…」 大地は体を屈ませると、かなでの下腹に顔を寄せ、そう呟いた。 大地は、看護士が言っていたという言葉を信じていた。 きっと、俺たちがまだ頼りないから、産まれてくることを断念したのだと。 けれど、これからは違う。君をなんの不安もなく育ててあげられる環境を頑張って作る。だから、 …また俺たちの元においで。 「…ひなちゃん。これだけ聞かせてくれるかい」 「………」 「俺のこと。…大嫌い、かい?」 「………!」 かなでは驚いて、ぶるぶると首を振った。 「………。じゃあ、これからも俺と一緒にいてくれるね」 「………」 でも。私は。 さっきからずっと口をついていた言葉が、初めて止まる。 「………いいの?だって私は、」 「君は、俺に罪の意識を抱いているから一緒にいられないと言ったね。けれど、俺にとって、君と一緒にいられないことは…。何よりも辛い、罰なんだ」 「大地先輩…」 「お願いだ、ひなちゃん。…これからも、俺のそばにいてほしい」 「…わんっ!わん、わんっ!」 「しー…」 嬉しそうに尻尾を振りながら吠えるモモに、人差し指を唇につけて合図する。 するとモモは、すんなりと静かになっておすわりをした。 「本当にいい子だね、モモちゃんは。…今はちょっと吠えるの我慢してね。やっと寝たところだから」 そう言って、かなではベビーベッドの中を覗き込む。 すやすやと眠っている、大好きな人との赤ちゃん。 「寝たのかな」 「ッ!………しー」 「おっと、ごめんごめん」 その大好きな人は、声をひそめて謝った。 それからベビーベッドへ近づき、かなでの肩を抱く。 「本当に可愛いね。…本当に」 「うん。…だって、大地さんの赤ちゃんだもの」 「君の赤ちゃんだからだろう?」 「…二人の、赤ちゃんだから」 くすくすと二人で笑う。 モモが尻尾を振りながら二人を見上げていることに気づき、大地は微笑んだ。 「モモも早く遊びたいんだろね。この子がもっと大きくなったら、一緒に遊んであげてくれるかい?」 「わんっ!」 「わわっ、…しー」 「くうん…」 本当に夢みたいだ。 あの頃、望んでいた未来が今ここにある。 もしあのまま、二人が離別を選んでいたら。 こんな未来を、掴むことはできなかっただろう。 今となっては、穏やかな気持ちであの頃のことを思い出すことができる。 「………大地さん。私、ずっと不思議に思っていたことがあって」 「なんだい?」 「………。今になって聞くのはおかしいかもしれないけど。どうして大地さんは、私が妊娠したことを…知っていたの?」 「えっ?君が話してくれたんじゃないか」 「えっと、違くて。…高校生の時」 「………ああ」 大地は遠い記憶を呼び起こす。 「夢をね、見たんだ」 「夢?」 「夢の中で…。俺の部屋に、君が来ていた。そして、『私のお腹に大地先輩の赤ちゃんがいた』って言ったんだ」 「………!そ、そうだったんだ。それで、寮に?」 「そうだよ」 「…ただの、夢だったのに?」 「思い当たる節があったのもそうだけど…。なんていうか、ただの夢のように思えなくて」 「………。そうだったんだ。なんか、不思議」 「そうだね。………願いごとをしたから、かもしれないな」 「願いごと?」 「うん。一度別れる前、君とモモと一緒に、よく行ったろう。駅前の噴水」 「あっ。コインを投げ入れて願いごとをすると叶う…っていう、あれ?」 大地は頷いた。 「そこにね、モモと一緒に行ったんだ。そして俺は、『大好きな人と一緒にいたい』と願った」 「そ…そうだったんだ…」 「…そういえば。君とモモと一緒に行った時に君が願ったこと、まだ聞かせてもらってなかったな」 「えっ!」 かなでは途端に顔を赤くした。 そんなに恥ずかしいことだったの?と大地は首を傾げる。 「………。あの時は…。願いごとは、誰かに言っちゃったら、叶わなくなるんじゃないかって思ってて…それで…言ってなかったんだけど…」 「なんだ。それならまだ聞かない方がいいのかな?」 「…ううん。もう、叶っちゃったから、いいよ。『大地先輩と、結婚できますように』」 「………そりゃまた、具体的なことを願ったんだね」 大地まで顔を赤く染めている。 …そんなことを願ってくれていたのか。 「でも、そんなことは俺に願ってくれれば、いつでも叶えたのに」 「うっ…。で、でも、いいの。どっちにしろ、もう叶ったから」 「ふふ。………。そういえば」 大地はモモを見遣った。 「俺とモモだけで噴水に行った時、コインを2枚投げて、モモにも願いごとをするように言ったんだ。…モモは何を願ったんだろう」 そうなんだ、とかなでもモモを見た。 モモはなに?というように首を傾げている。 「もしかして、あの夢は夢ではなくて、モモがひなちゃんに変身した姿だったのかもな?」 俺は君に会いたい会いたいって思っていたからね、と大地は笑った。 てっきりかなでも笑うかと思ったのに、かなでは俯いてしまった。 「………。私、あの時のこと、誰にも言ってなかったけど…。一人にだけ、打ち明けたの…」 「えっ?」 「…モモちゃん。モモちゃんにだけ、私、打ち明けたの。スーパーの前で、モモちゃんを見かけて…」 「スーパー?………あっ」 そういえば…。 モモと一緒にあの噴水で願いごとをしたのは、母に頼まれてスーパーで買い物をした後のことだった。 自分でも、昔のことをよくそこまで思い出せたな、と思った。 「ちょうどその後だよ。モモと一緒に噴水に行ったのは」 「えっ…」 二人して、モモをじっと見つめた。 モモは「?」という感じで首を傾げている。 「はは、まさかね。そんなこと…」 「…ううん。もしかしたら、そうなのかも。私、モモちゃんのことも大好きだったし、これから会えなくなっちゃうんだって思ったら、すごく寂しくて…。モモちゃんも、そう思っててくれたのかも。だから」 ご主人様とかなでちゃんが、仲直りしてくれますように。 そう願って、かなでの言葉を大地に伝えてくれたのかもしれない――― 「そうだとしたら…。モモ、お前は本当に飼い主孝行な犬だね」 俺の人生の岐路ともいうべき時に、活躍してくれたんだからね。 大地がモモの頭を優しく撫でると、モモは嬉しそうに「くうん」と鳴いた。 END |