Hearing ear hood |
「ああ、すまないがこの楽譜を…」 「はははははいっ!ななななななんでしょうかききききき如月部長!」 「………」 「ちょっといいか。このパート譜なんだが…」 「きゃああああああッ!」 「?!」 「…………」 夕暮れのオケ部部室。 律は腕組みをして窓の外を眺めたまま、黄昏れていた。 部活はとうに終わっているし、もう何もやるべきことはないのだが…。 なんとなく、すぐ下校する気にはなれなかった。 今日に始まったことではないが、今日も部員たちの律に対する態度は酷いものだった。 楽譜のコピーを頼もうとして声をかければいっそ不自然なほどの吃りを伴って逃げられるし、パート譜について質問しようとすれば金切り声を上げて逃げ出される始末。 以前かなでに語った通り、いつも厳しいばかりの自分が嫌われていることは重々承知していたはずなのだが… やはり、慣れるものではない。 かといって、部員たちに好かれるように、ただ優しいだけの部長に成り下がるわけにもいかなかった。 律と対等に接してくれるのは大地とハルと、三年の部員くらいだ。 そんな中、驚きはしたが、響也やかなでが転校してきてくれてよかったと感じていた。 気心の知れた人間が近くにいてくれることの安堵感を、この二年前、単身星奏学院へ旅立った時から忘れていた気がする。 「律くん?」 部室のドアが開いて、かなでが顔を覗かせた。 てっきり既に帰っているものだと思っていたのに。 「…ああ、小日向。どうした?」 「どうしたじゃないよ~。待ってたのに、律くんなかなか出てこないから」 「っ…そうだったのか、すまない」 律は傍らにあった鞄を手にした。 図らずも待たせてしまったことは申し訳なく思ったが、自分を待ってくれている人がいるというのは嬉しいものだ。 かなではにっこり笑って、「早く帰ろ」と言った。 「…何してたんだよ。おせーんだよクソ兄貴」 正門前まで来ると、響也に悪態で迎えられた。 響也も待ってくれていたのか、と驚いたが、汚い言葉遣いは聞き捨てならない。 「別に、待っていてくれとは頼んでいない」 「かーッ!相変わらずムカつく言い方しやがって。俺だってなぁ、かなでに頼まれなきゃあんたなんか」 「まあまあまあ。早く帰ろうよ、お腹空いちゃったし」 この歳になっても、三人の関係は変わらない。 響也がケンカを売り、律がさらりと流し、食ってかかる響也を牽制しつつかなでが雰囲気を和ませる。 …いや、横浜に来る前と今では、変わったといってもいいのか。 地元にいた頃、響也はもっと素直に律を慕っていたし、かなではもっと頼りなかった。 律だって、あらゆる面で今ほど自分を押さえ付けようとはしていなかった。 どうしてこうなったのか――― そう聞かれれば、律には時間が経ったからだとしか言えない。 やたら悪態をついてくるようになった弟も、どこか背伸びをしようとしているように見えるかなでも、何を考えていて、どうしてこうなったのか、律にはわからなかった。 かといって、真意を追求しなければいけないほど重要なことでもない。 長く伸びる影法師を伴いながら、三人は菩提樹寮へと帰った。 「…………」 今日は部活が休みだ。 律は屋上での練習を終え、弓についた松脂を拭き取っていた。 大地に知られたら、「部活のない日くらいは受験勉強をしろ」なんてお小言を言われてしまうかもしれないが、部活のない日でも、どうしても手持ち無沙汰になってヴァイオリンを触ってしまう。 少し寒くなってきたので、これでも早めに練習を切り上げた方なのだが。 「…よし。………ん?」 屋上を出ようとすると、ベンチに何か置かれていることに気づいた。 色は赤で、目立つことから今も気づいたのだが… 今まで、あの場所にあんなものがあっただろうか? 気になって、律はその赤い何かに近づいてみることにした。 「…なんだこれは。ずきん?」 それは、座布団のようにも見えたが、手に取ってみると、小学生の時に使っていたような防災ずきんのようだった。 高校に入ってからは、避難訓練の時くらいにしか目にする機会のなかったもの。 普通ならそんなものがここにあるなんて気味が悪いと思うものだが、律は素直に懐かしいな、と思った。 誰かの忘れ物かもしれない。 職員室に届けよう、と律はその赤いずきんを手にして屋上を下りた。 「あっ、如月部長…!」 職員室に向かうまでに、律は音楽室の近くを通った。 音楽室の前には、いつも律が話しかけただけで激しく吃る下級生の部員がおり、律の姿に気づいたようだった。 「ああ…」 何をしているんだ、今日は部活は休みだぞ、と声をかけようとしてためらう。 彼も、部活がない日にまで鬼部長と接したくなどないだろう。 その時だった。 『きっ…如月部長!今日は部活休みなのに、なんでこんなところに!』 「は…?」 そんな声が聞こえて、律は周囲をきょろきょろと見回した。 部員の彼はただ怯えたように律を見ていて、何も発してはいない。 かといって、今何かを言ったであろう誰かは、見当たらない。 すれ違う生徒たちはいるが、みんな誰かと談笑していて、律に声をかけたそぶりを見せる者はいなかった。 『…きっと如月部長、部活のない日でも自主練習していたんだろうなぁ。やっぱり憧れの如月部長はすごい…!恐れ多くてまともに話すことなんかできないよ…!』 「…???」 また聞こえてきた。 一体誰なんだろう。 律のことを喋っていて、こんなに鮮明に声が聞こえるということは、近くにいるはずなのに。 『…?どうしたんだろう、如月部長…』 ふと部員に目を向けると、そんな声が聞こえてきた。 もちろん、彼は何も発していない。が、じっと律を見ている。 『もしかして…如月部長、部活もない日なのにこんなところにいることを怒っているのかな…。でも僕、部活がない日もこうやって練習しないと、下手くそだし…如月部長のようになりたいと思って、毎日練習してるのに…下手だから…』 「(これは…)」 話の内容からしても、彼の発言だろう。しかし、彼は口を開いていない。 まさか、これは彼の心の中…、心の声が聞こえている? にわかには信じがたいが、他に話しているらしき生徒が見つからない以上、こんな強引な仮説でもなければ説明がつかない。 それに… もしこれが、彼の心の声だとしたら。 今まで、嫌われているとばかり思っていた部分が、自分の思い込みだとわかる。 …なんだか、嬉しくなった。 「…あっ」 律は部員の頭をそっと手を置いた。律のいきなりの行動に、部員は慌てふためく。 「部活がない日も練習しているなんて偉いな」 「えっ………?!」 「お前は下手なんかじゃないぞ。よく練習をしているのも知っている。自分の今の力量を知ることは大切だが、もっと自信を持っていい」 「………!」 そう声をかけると、部員は今まで見たこともないくらい嬉しそうな顔をした。 「………はい!」 部員は手にしていた楽譜をぎゅっと抱きしめるようにして、力強くそう言った。 その声は、もう吃ってはいなかった。 しかし、不思議なこともあるものだ。 なんだったのだろう、と考えながら、律は音楽科棟と普通科棟を繋ぐ渡り廊下まで歩いてきていた。 職員室は普通科棟にある。 「あっ、如月さんよ!」 ひそやかだが、明らかに聞こえよがしな声が聞こえて、律はその方向を見遣った。 そこには女子生徒ばかりが3人、律の方を見ながら固まっている。 その中には、声をかけるといつも悲鳴をあげる部員の姿も。 さきほどと同様に、声をかけようとしたが… また悲鳴をあげて嫌がられてしまうかもしれない、と思い止まった。 「何よー、声かければいいじゃん」 「そうだよー」 部員は、何やら他の二人に肘で突かれている。 先輩に挨拶しろと促しているのだろうか。今時の若者にしては上下関係を弁えた立派な生徒だ…と感心したが、 律は別に、そんなに敬ってほしいタイプではないから、いやなら無理に声をかけてこなくてもいいのに、と思った。 『如月部長は人気者だし、みんなの憧れの的だし…私なんかが声かけても、迷惑なだけだよ…』 また聞こえてきた。 正体不明の声だ。 おそらくはこれも、あの女子部員の声なのだろう。 「(そんな風に思っていたのか…)」 正直、そんな風に思ってもらえるほどの人間ではないのだが、と律は戸惑った。 しかし、その思い込みの結果がいつもの彼女の行動なら、誤解は解きたいと思った。 「ああ。今日は部活が休みだな」 「!」 気さくに話しかけてきた律に驚き、女子部員はいつものように悲鳴をあげそうになった。 「お前も、部活で何か困ったことがあったら、すぐに声をかけてきていいんだぞ。おかしな遠慮はするな。俺は、部員たちのために上に立っているのだから」 「………!」 「わあ、如月さんてやっさしー!」 「ちょっとー、話してたことと全然違うじゃない!めっちゃ気さくじゃん、如月さん!」 二人に冷やかされる中、女子部員は目を潤ませてただ如月を見つめていた。 『如月部長が私にあんなことを…嬉しい…!』 聞こえてきた声からは、本当に嬉しそうな感情が伝わってきた。 …彼らも、律に対して誤解という名の思い込みをしていたようだが。 自分もまた、自分が嫌われているなんてネガティブな気持ちでいたことを律は思い知った。 部員たちは純粋な気持ちで自分を慕ってくれていただけだというのに。 でも、よかった。 彼らとは、これからもいい信頼関係を築いていけそうだ。 しかし… なぜこうも突然、人の心の声が聞こえるようになったのだろう。 幻聴…ではないと思う。 自分に超能力が身についたとでもいうのか? 律はきっかけを探した。 最初に声が聞こえたのは、あの男子部員で… あの時、何か変わったことはあったか? 確か、屋上で練習する前は、こんなことは起こっていなかったはず。 「………」 律は無意識に手にした赤いずきんを見た。 もしかして、これのせいか? あるずきんを被ると、動物やあらゆる生き物の声が聞こえるという童話を思い出す。 もしかして、これは人の心の声が聞こえるずきんなのだろうか…。 律の足は、無意識に校舎の外に向かっていた。 誰かの落とし物、忘れ物であろうこのずきん。 本来なら、当初の予定通り職員室に届けなければいけないものだが…。 少しだけ貸してほしい、と思った。 自分は、他人にどう思われていようが気にならない性格だと、周りに思われているかもしれない。 でもそれは間違いだ。人から嫌われて嬉しい人なんていない。 響也はあれでいて愛嬌があり、自分の気持ちを素直に人にぶつけることができる。 かなではいつでも周囲の笑顔の中心だ。 自分だって、彼らみたいになりたい。 このずきんがあれば、鈍い自分にも、人の気持ちを理解し、これまでよりもっと良好な人間関係を築くことができるに違いない。 律は、心の中でずきんの持ち主に謝罪をすると、一週間後には職員室に届けると決め、下校した。 「……………」 夕食後、律はラウンジで考え事をしていた。 もちろん、あのずきんのことだ。 寮で他の生徒と出くわしてからわかったことだが、どうもこのずきん、心の声を聞きたいと思った相手の声しか聞こえない様子。 聞きたくもない心の声が聞こえてしまっても困るから、これはいい機能だ。 部員たちと話した時も、無意識に彼らはどう思っているのだろう、と考えていたに違いない。 ラウンジには熱帯魚の餌やりついでに勉強でも、とバッグ持参でやってきたものの、考え事にかまけて勉強をする手は進まなかった。 「…何してんだよ」 ラウンジに、菓子パンをくわえた響也がやってきた。 きっと、台所からくすねてきたのだろう。 夕食を食べたばかりなのに、とついお小言が口をついた。 「響也、夕食が終わったばかりだろう。歯は磨いたのか?またそんな甘いものばかり食べていると…」 「うるせーな。何食おうと俺の勝手だろ!おふくろみたいなこと言ってんじゃねーよ、クソ兄貴」 …またいつもの悪態だ。 少しは素直に忠告を受け入れればいいものを。 …しかし、つい響也の逐一にお小言を言ってしまう自分もよくない。 だがそれは、離れて暮らしていた二年間、自分の目の届かないところでも響也がきちんと生活を送れていたかどうか、心配をする気持ちからでもある。 きっと、響也にこんな自分の真意は伝わっていないのだろう…。 は、と律は思った。 鞄の中にはまだ、あのずきんを入れたままだ。 ふて腐れてラウンジを出ていこうとする響也を見て、律はすかさず鞄の中のずきんに触れた。 『兄ちゃんの奴、またぼーっとしてやがって。まだ腕が痛むとかじゃないだろうな?だとしたら、それとなく病院に行くように言った方がいいかもしんねぇ』 「………」 聞こえてきたのは、そんな穏やかな声だった。 響也は興味なさそうにラウンジを出ていこうとしている。 …響也は、心配して声をかけてくれたのだ。 それなのに、自分はつまらないお小言を言ってしまった…。 わかっていないのは、自分の方だったのだ。 「響也」 「あ?んだよ。まだ何か…」 口から菓子パンを取って、響也は気怠げに振り向いた。 「腕は痛まない。やたら酷使することがなければ、これ以上の悪化はしないと医者に言われている。…心配をかけて、すまなかったな」 「………は?」 響也の顔はみるみる赤くなった。 「な、何言ってんだよ!誰もあんたの心配なんかしてねーし!つーか腕のことなんかすっかり忘れてたし!いきなり変なこと言い出すんじゃねーよ、クソ兄貴ッ!」 『よかった、腕は大丈夫なんだな』 響也はバタバタとラウンジを出ていってしまった。 星奏学院に来てから、響也はきっと兄である自分の勝手な行動を厭い、嫌ってしまっただろうと思っていた。 自分のいない間に、やたら反抗する尖った人間になってしまったとばかり思っていた。 しかし、違った。 自分にとって、響也は可愛い弟のままだった。 安堵と共に、胸が暖かい気持ちで満たされていく。 「響也先輩!少しは真面目に練習して下さい!いつもいつも怠けて手を抜いて!」 「ああ?真面目にやってんだろーが!お前の沸点が低すぎなんだよ!」 『響也先輩…。もっと真面目にやってくれればもっといい音を奏でられる実力がある人なのに。このままではもったいなさすぎる』 『ったく、ハルは頭が堅すぎなんだよ。もっと力抜くことも覚えねーと、潰れちまうぞ』 「どうしたの?律くん」 響也とハルのやり取りを見ながらくすくすと笑っている律を見て、かなでがにこにこしながら話しかけてきた。 「…止めてこようか?」 「いや、いいんだ」 あれから、ことあるごとにずきんの力で人の本音を聞いている。 人の心を見透かし、覗きをしているようで、少々の罪悪感もあったが…。 建前と本音の相違、これほどまでに人の心は複雑なものなのだと理解し、勉強になった面は大きかった。 それに、以前より他者の気持ちを深く汲み取れるようになったし、自分もまた、思いやりをもって人と接することができるようになった気がする。 「…律くん、何か嬉しいことでもあったの?」 笑顔で聞いてくるかなでを見て、律は鞄に忍ばせたずきんから手を離した。 …かなでの心の声は、まだ聞いていない。 興味がないわけではない。むしろ一番と言っていいほど、かなでの心の声を聞いてみたいのだが… かなでの心の声を聞くのは怖い。 そう考えてしまい、いつも思い止まってしまうのだ。 かなでは可愛い幼なじみ。 妹のような存在である女の子だ。 しかしそれこそ、律の建前だった。今も昔も、こんなに深い想いを寄せる女の子は、彼女一人だけ。 律は、かなでを幼なじみ、オケ部の部員、アンサンブルメンバーとして扱っているつもりだ。 彼女もまた、律と同じ。律に幼なじみ、オケ部の部長、アンサンブルメンバーとして接している。 …だから、かなでの心の声を聞くのは怖い。 どう思われているのであれ、表面上とは違う気持ちを向けられているとしたら、それはとても怖いことだった。 今のかなでとの関係が、良好であるからこその怖さだった。 だから、かなでに対してはずきんを使わない。 こんな臆病な気持ちでいることを知られたら、笑われるだろうか。 「…今日の練習はこれくらいでいいだろう。あとは各自、自主練をするように」 律はかなでの問いに答えず、ヴァイオリンを手早く片付けると、練習場所である音楽室を去った。 「…律くん」 「ああ、まだ言い争ってる。律も呆れて帰ったことだし、そろそろ止めようか」 「ううん、大地先輩。律くんは、怒ったり呆れたりはしてなかったみたいですよ?」 「えっ?そうかい?」 「はい。…なんだか最近、律くんが優しくなったというか…よく笑うことが多くなった気がするんです。大地先輩は、そう思いませんか?」 「うーん…そうだな。確かに丸くなった感はあるかもね。部員たちも、いっそう律を慕うようになったし。何か心境の変化があったのかな?…彼女ができた、とか」 「えっ!」 にやり、と思わせぶりに笑った大地に対し、かなでは眉をハの字にして、あからさまに傷ついた表情を見せた。 「あははは、うそうそ。律に彼女なんかできたら、真っ先に俺の耳に入るさ。そんな話は全く聞いていないよ」 「な、なんだ。よかった…」 「本当に君はわかりやすすぎて可愛いな。律め、妬かせてくれるね」 「か、からかわないで下さいよう」 「でもひなちゃん、律には本当に真正面からアピールしないと、うまくいかないぞ?鈍感だからなぁ」 「そんな簡単に言わないで下さいよ~。幼なじみって、いろいろ大変なんです。今更どうやって律くんに気持ちをわかってもらおうか、考えるだけで難しいんですから…」 「へえ…そんなものなんだ」 「それに…」 かなでは少し悲しそうに俯いた。 「今は今で、星奏学院に来れて、地元にいた時みたいにそばにいられるだけでいいな、とも思うんです。気持ちを伝えて、今の関係が崩れてしまうくらいなら…」 「………はぁ」 大地はため息をついて、かなでの頭を撫でた。 「本当に君って子は、健気だなぁ。そんなこと言われたら、抱きしめたくなっちゃうよ」 「も、もう!だから大地先輩、からかわないで下さい~っ!」 「行けなくなった?」 学校も部活も休みの、日曜日のこと。 これから出かけようとしていた律の元に、大地から電話がかかってきた。 今日は、大地に誘われて映画を観に行く予定だった。 しかし、今から出ようとしていた矢先、急用で行けなくなってしまったという電話がかかってきたのだ。 『悪いな、律。親父の用事で、どうしても断れなくて』 「ああ、わかった。それは仕方ないな。では明日にでも預かっていた前売券を渡そう」 『いや、いいんだ。その映画は今日までだし、よかったら他の誰かを誘って観に行ったらどうだ?もったいないだろ?』 「ああ、今日までなのか。それは確かにもったいないな。そうだ、響也でも誘って…」 電話口からため息が聞こえてきた。 「…どうかしたか?」 『いや、なんでもない。…ひなちゃんを誘ったらどうだ?確か前に、ひなちゃんもその映画を観たいと話していたのを聞いた気がするよ』 「そうなのか?」 それならかなでを誘おう。 観たいと思っていたなら、かなでを誘うのが一番だ。 『じゃあ、楽しんでこいよ。明日、感想を聞かせてくれ』 「わかった、ありがとう」 電話を切り、律はかなでの姿を探した。 誘おう…と安易に考えたが、もしかしたら彼女にも既に用事があって、いないかもしれない。 まずはラウンジを探そう、と廊下を歩いていると、ニアと出くわした。 「ああ、支倉。小日向を知らないか?」 「小日向?今日はまだ見ていないな。部屋にいるんじゃないか?」 「そうか。すまないが、呼んできてくれないか?」 「ああ、構わないが。…何の用だ?」 ニアの瞳が妖しく光った。 おいしいネタの匂いを敏感に嗅ぎ取ったらしい。 が、律にそんなニアの思惑がわかるはずがない。律は素直に答えた。 「いや、これから映画に行かないか、聞いてみようと思って。もし小日向がいなかったら、支倉、お前でも…」 「待っていろ。すぐに呼んでくる」 ニアはしゅたっと猫の如き俊敏さで女子棟へ消えた。 「相変わらず身のこなしが軽いな、支倉は」 「大変だ、小日向」 「わっ!ノックくらいしてよお!」 ニアはノックもせずかなでの部屋に飛び込んだ。 かなではまだパジャマのまま、だらだらと朝食の惣菜パンを食べている。 「ど、どうしたのよう」 「今、如月律に声をかけられてな。君を映画に誘いたいそうだ」 「ええっ?!」 かなでは飛び上がった。 期待通りの反応を示してくれた友人を見て、ニアは満足げに笑う。 当然、ニアはかなでが律に想いを寄せていることを知っている。 「これは今までの誘いとは違って、正真正銘のデートだぞ。もちろん、誘いは受けるよな?」 「う、うんっ!もちろんっ!」 かなではあたふたと両手を動かしていた。 まだパジャマなのだ。せっかくのデートなのに、急いで用意をして、どこか綻びがあったりしたら立ち直れない。 どうしよう、とかなでは縋るようにニアを見た。 「少し準備に時間がかかるらしいんだが、待ってやってくれないか?」 「ああ、構わないが」 かなでは準備に時間がかかるらしい。 映画は一日に何度か上映しているし、別に次の回でも問題はない。 急に誘ったのはこちらの方なんだし、と律はニアの言葉に頷いた。 …二時間後。 三十分が一時間に、一時間が二時間に伸び、かなではようやく準備を済ませて律の前に姿を現した。 「ご、ごめんね、律くん。遅くなっちゃって…」 「ああ、準備は済んだのか?」 パタンと読んでいた本を閉じ、かなでを見る。 律から見ても、よそ行きの可愛らしい服に、凝った髪型、少しだけ化粧をしているのがわかる。 「…随分お洒落をしてきたな」 「えっ?!」 「あ…いや、すまない。変な言い方だったか?」 「う、ううん」 かなではぽっと赤くなって俯いた。 「じゃあ、行くか。今からなら、ちょうど次の上映時間に間に合いそうだ」 「うんっ!」 かなでが準備をしている間、律は一度部屋へ戻っていた。 …あのずきんを取りに戻ったのだ。 他意はないと自分に言い聞かせてはいたものの、どこかでかなでの気持ちが知りたい、と思う気持ちからその行動を起こしたのだろう。 一方かなでは、どきどきしっぱなしだった。 これまで何度か夜や休日、律に誘われたことはあったが、そのどれもがデートとは言いがたいただの用事だった。しかし今回は違う。 休日に二人きりで映画に行くことをデートと呼ばずとしてなんと呼ぼう。 最近律が丸くなったと思った矢先の今回のサプライズ。 もしかして律は自分を… そんな乙女の期待を、かなでは抑えきれずにいた。 初秋の並木道は、歩いているだけで絶好の散歩道となる。 季節と共に色を変えゆく木々を眺めながら、二人は駅前を目指した。 「あのビルの一階だな」 光栄シネマという大きな看板を指さし、律は言った。 「律くん、今日はなんの映画を観るの?」 「ああ、今日は…『四神と鬼の一族』という映画の前売券を持っている。小日向はこの映画を観たかったんだろう?」 「え?」 観たかったどころか、タイトルすら初めて聞いた。 だが、律の眼差しにやたら期待がこもっていたので、知らないとは言えない。 「う、うん!」 「この映画の上映は今日までだそうだ。来れてよかったな」 「…うん!」 とりあえず、律と映画に来れるならそれだけで嬉しい。 二人は受付に向かった。 「あっ!如月じゃん!」 律が鞄から前売券を出そうとしていると、不意に声をかけられた。 「…ああ。奇遇だな」 そこにいたのは律のクラスメイトだった。 彼は人当たりがよく、優秀さゆえからクラス内で孤立しがちな律にも、ことあるごとに声をかけてくれる好青年。 彼はかなでに目を向けて、冷やかすように言った。 「なんだなんだ?デートか?やるなあ、如月!」 かなでは律の背に隠れるようにして恥ずかしがっている。 これがかなでのクラスメイトならうまく交わせていただろうが、律と気さくに話しているところを見ると先輩のようだし、そんな相手にはなんと言ったらいいかわからない。 「いや…。そっちこそどうなんだ?今日は誰かと一緒に来ているんだろう?」 「俺は中学ん時のダチと!…全員男だよ」 とほほ、と大仰に肩を落とす姿に、律もかなでも少し笑う。 『…調子に乗ってんじゃねえよ』 「………?」 どこからかそんな声が聞こえて、律は首を傾げた。 この声の聞こえ方は… 『全国大会優勝だかなんだか知らねえけど、普段は人も寄せつけずにクラスでぼっちのくせに。ちゃっかり彼女作ってたのかよ』 「………」 律は、鞄から前売券を出そうとしていた自分の手が、例のずきんに触れていることに気がついた。 『本ッ当いいご身分だよな。点数稼ぎで愛想よくしてやってたのによ』 「(………そうか)」 律は目を伏せ、言った。 「友達と楽しんできてくれ。じゃあ俺は、チケットを出しに行くから」 「ああ。如月も楽しんでこいよ!」 「………?」 クラスメイトはロビーの方へ去っていった。 一見、なんでもないやり取りではあったが、かなでは律の態度に何か違和感を感じた。 …そうだ。 響也やハルなど、表面上は悪態をつきつつも、心では本当に相手のことを想っているような人間の心の声しか聞いてこなかったから、わからなかった…いや、忘れていただけだ。 彼らとは真逆に、表面上は人当たりをよくして、心では非情なことを考えている人間だっている。 むしろ、世の中にはその方が多いだろう。 それが悪いというわけじゃない。誰だって、本音を隠して周囲とうまくコミュニケーションを取り、人の和を保っている。 むしろ本音だけで世の中が回っていたら、大変なことになってしまうだろう。 このずきんは、本当は恐ろしいものなのかもしれない。 今のやり取りですら、律は少なからずショックを受けた。 人の本音を知っていいのは、本人だけだ。 人の心を見透かすような真似は、これで終わりにしなければ――― 「律くん律くん、ジュースとパンフレット買ってこ!」 律の腕に触れ、かなではにっこりと笑った。 「ああ」 律も微笑み返して、二人は売店に向かった。 「そろそろだね」 上映時間まであと三十分と迫っている。 前回の客がちらほら出てきて、ロビーで待っていた律たちは、入れ替わるように場内へ入っていった。 前からも横からも真ん中の席を選び、席につく。 これまでの会話は普段の何気ないものと変わらなかったが、 映画館で律と隣同士に座っているこの状況が、かなでにとっては幸せそのものだった。 「…ん?」 まだ開け放たれたままの、ドアの先の廊下が何やら騒がしく、律は後ろを振り向いた。 走っている人までいる。 「…あれ。なんかガヤガヤしてるね、あっち。どうしたんだろう?急病人…とか?」 「なんだろうな」 席についた他の客も、なんだなんだと騒がしくなってきた。 「館内のお客様に申し上げます。館内のお客様は、すみやかにロビーへお集まり頂けますよう―――」 「え…?」 そんな館内放送が流れ、周囲が一気にざわめいた。 こんな出来事は初めてだ。火事か? しかし、なぜロビーに出なければいけないのか、その理由も言わないなんて… 火事だったら、ロビーでなく非常口に向かわせるはずでは? 「どうしたんだろう…律くん…」 かなでは不安そうに律の服の裾を掴んだ。 「とりあえず、放送に従おう。ロビーに出るんだったな」 ロビーにはかなりの人が集まり、みんな一様に不安げな顔をしていた。 出口は、と見遣ると、なんと出入口が封鎖されている。 どういうことだ、と怒鳴り散らしている客を店員が宥めている姿も見えた。 「お客様にお知らせ致します。現在、弊社ビルに強盗犯が逃げ込んだとの情報があり、警察署からの要請を受け、一時的にビルを封鎖しております。お客様にはご迷惑をおかけしておりますが、どうか落ち着いて、係員の指示に従い…」 「なんだって?!」 落ち着くどころか、ロビーは騒然となった。 「り、律くん…!」 その後の放送を聞いていると――― 強盗犯は近くの銀行で銀行員を刺して逃亡、このビルに入ったことまではわかっている。 しかし人出に紛れ、行方が掴めなくなっているとのこと。 既に警察もビルを包囲し、内部にも何人か警察が入り込んでいるらしい。 盗んだものでも持っていれば、犯人がすぐわかりそうなものだが、 強盗は未遂に終わり、その腹いせに銀行員を刺し、逃亡したとのことだ。 犯人の特徴もわからないため、探しようもない。 それから、犯人への出頭を促すアナウンスも流れたが… 「ちょっと!出しなさいよ!なんで私たちが犯人と閉じ込められなきゃいけないの!」 「も、申し訳ございません!犯人は銃火器は所持していないとのことですので、まずは落ち着いて…」 律もかなでも、初めて「パニック」という状態の中へほうり込まれ、唖然としていた。 ビルに逃げ込んだということは、このロビーに犯人がいるとは限らないが… 不安に駆られないはずがない。 避難訓練じゃないの、なんて声も聞こえてくるが、 こんな大掛かりな避難訓練など、客になんの説明もなく行うものだろうか? 「律くん…」 律の手を握るかなでの手は、震えていた。 怖いのだろう。律だって怖い。 近くに人を刺して逃げている強盗犯がいると思うと… 「―――――!」 そうだ! 律は鞄を開け、中のずきんに触れた。 もし近くに犯人がいるのなら。 「(この中で、一番強い悪意を持っている人間の心が知りたい…!)」 そう念じた。 声が聞こえてこないことを願った。 『ちくしょう…、逃げ込む先を見誤ったか…』 「………!」 声は、聞こえてきてしまった。 しかも… 二人の、背後から。 律はゆっくり、何気なく周囲を見回すふりを装い、後ろを振り返った。 上下黒ずくめの服。怪しいといえば怪しいが、上下黒の服を着ている人なんて他にもいる。 その男は、ポケットに手を入れ、イライラした様子で汗をかいている。 どの人も家族や恋人、友人といるのにも関わらず、彼は一人のようだ。 こいつだ… 律は確信した。 『こうなったら…そのへんの奴を人質に取って立て篭もるしかねぇか…』 「っ…」 律は青ざめた。 一般客でさえ、封鎖されたビルの中で焦燥感に駆られているというのに、 犯罪を犯して追跡されている犯人の切迫した心境はいかなるものか。 早くなんとかしないと、彼は凶行に及ぶに違いない。 律はかなでの手を掴んだ。 「え?何、律くん…」 「少し場所を移動しよう」 「え?」 とにかく、犯人から離れよう――― そう決めた律だが、移動しようとした足を止めた。 律には強盗犯が誰なのかわかっている。 このまま彼と一番遠い距離に行けば…おそらく凶器は刃物だ。律とかなでに被害が及ぶことはないだろう。 だが、何も知らない他の一般客はどうなる? 犯人がこの場で凶行に及ぶ前に警察が彼を発見してくれれば、この場にいる人々は助かるのかもしれないが…。 そうだ、警察…! 律はそれらしき人物を探したが、警察の制服を着ている人は見当たらなかった。 おそらく、ここに警察が潜入していたとしても、私服警官なのだろう。 仮に今、律が犯人を取り押さえようとしたとしても… あまりに危険すぎる。かなでにまで被害が及んでしまうかもしれない。 こんな時、水嶋がいてくれたら…と律は唇を噛んだ。 律一人では、返り討ちにあう可能性の方が高い。 詰んだか… このまま二人だけ、何もせずに犯人から遠い位置で成り行きを見守るしかないのか? その時、ロビーの隅にいた人に目がいった。 さきほど、受付で会ったクラスメイトが、数人の友人たちと一緒にいた。 「(そうだ…!)」 「り、律くん?」 律はかなでを連れて、彼らの元に向かった。 「あっ!如月!…なんか、大変なことになっちまったな…」 クラスメイトは怯えた様子だった。 それはまあ、仕方ない。 事態は一刻を争う。律は彼の耳元で、声をひそめて言った。 「いいか、大きな声を上げないでくれ」 「えっ?なんだよ、いきなり」 「このロビーに、強盗犯がいる」 「ッ?!」 「しっ!」 案の定声を上げそうになったクラスメイトの口を、律が塞いだ。 「そ…そうなのか?やべーじゃん…!」 「だから、お前に協力してほしいんだ。中学の友人たちも一緒に」 「えっ…」 「俺たちで犯人を取り押さえるんだ」 クラスメイトは息を飲んだ。 それから、自分だけでは決めかねると、友人たちにも話を打ち明けることにした。 「まじかよ…」 「俺たちが?」 友人は三人。律とクラスメイトを合わせれば五人、これなら強盗犯を取り押さえるには充分な人数だろう。 それに、自分たちは明らかに高校生の一般客。それとなく近づけば、不意打ちで取り押さえることができる。 「このままにしといても、どっちみち俺らも被害に遭うかもしれないもんな」 「だったらやれるだけのことしといた方がいいよ」 「だよな、俺はやるぜ!」 クラスメイトの友人たちは、すぐに乗ってきた。 …が、当のクラスメイトだけは及び腰だ。 「でもさ…反撃されたらどうすんだよ…。こういうのは、警察に任しといた方がいいって…」 「その警察がどこにいるかわからないんだ。俺が見たところ、犯人も切羽詰まっている。こうしている間にも、誰かが刺されたりする可能性だってあるんだぞ?」 「で、でも!そうなったらそうなっただよ。自分が刺されなきゃいいじゃん!」 「………」 律はため息をついた。 不本意だが…。さっき、彼の心の声を聞いた時のことを思い出し、なんと言えば彼がやる気を出すのかを考えた。 「ここで犯人逮捕に貢献すれば、クラス内での反応も大きいと思うが?」 「えっ」 「お前が協力してくれるなら、俺は犯人を取り押さえようと一番尽力したのはお前だと、みんなに話そう。…進路にも有利に働くかもしれない」 「………!」 クラスメイトの顔色が変わった。 「取り押さえている間に、警察も気づいて協力してくれるはずだ。どうしてもいやだというなら、お前はここにいても構わない。…どうする?」 「っ………。わかった、俺も行くよ」 律は胸を撫で下ろした。 たった一人でも、戦力が必要なのだ。 じゃあ行こうと、一同は頷き合った。 「…にしても如月、お前案外打算的なこと考えるヤツだったんだな。ちょっと見る目変わったぜ」 「そうか」 言葉は素直に頷きがたい嫌みの混じったものだったが、その表情は好意的だった。 「小日向、お前はここにいろ」 「えっ…?」 これまでのやり取りは、かなでには聞かせなかった。 クラスのことで内密に話があるから、と言ったら、彼女は素直に遠ざかってくれた。 かなでを危険な目に遭わせるわけにはいかないし、きっと律の計画を聞いたら反対するだろう。 「いいから、お前はここにいろ」 「…う、うん」 かなでは納得いかなそうな顔をしていたが、律の押しに素直に従った。 「…あいつだ。いいか、それとなく近づくんだぞ」 律たちが元いた場所の近くまで来て、律は四人に目配せをした。 あくまで普通の男子校を装わなければいけない。 『いつまで閉じ込めやがんだ…。だが…、日本の警察も無能だな。俺を取り逃がして、こんなとこに追い込んじまうんだからよ』 「あ~、腹減った。いつまでもこんなとこにいたら、餓死しちまうよ」 「つーかお前、さっき一人でポップコーン抱えて食いまくってただろ~?」 クラスメイトの友人たちは、なかなか演技がうまかった。 犯人の距離まで、あと数センチ。 ―――――今だ! 「あっ、すみません」 律が犯人の肩に少しぶつかるのが合図だった。 クラスメイト、クラスメイトの友人たちが一気に脇を固め、腕を取り押さえる。 「………ッ!何しやがる!」 続いて犯人の激しい抵抗が始まったが、四人に取り押さえられているため、びくともしなかった。 腕が持ち上げられたことにより、ポケットから出された手には… 血のついたナイフが握られていた。 「きゃああああ!」 蜘蛛の子散らすように周囲から一般客が逃げていく。 四人が犯人を引きずり倒すように動いて、犯人は仰向けに転がった。 律はすかさず犯人の手を踏み潰し、手からナイフが離れたところでナイフを遠くへ蹴飛ばした。 「ちくしょおおお!離しやがれ!」 「君たち、よくやってくれた!警察だ、観念しろ!」 律の読み通り、私服警官であろう男たちが駆け寄ってきて、同じく犯人を取り押さえた。 やはり素人とは違う、完璧な訓練が施された見事な技だった。 「や…やったな!」 「やった!せ、成功だよな!これって成功したんだよな!」 クラスメイトとその友人たちは、犯人を警察に引き渡した後も、まるでヒーローのような顔をして喜びを分かち合っていた。 「びっくりしたよ、もう…」 帰り道。 すっかり日が暮れた、菩提樹寮への並木道を、律とかなでは並んで歩いていた。 「すまなかった」 あの後、警察の取り調べに応じたり、どこからか馳せ参じた新聞記者のインタビューに応じたりと、何をしにきたのかわからないことばかりに追われ、結局こんな時間になってしまった。 表向き、犯人逮捕に一番の協力をしたのはクラスメイトの彼だと、律は彼との約束を守る名目でいろいろと押し付けてきたのだが、それでもこの時間だ。 …デートどころか、映画も観れず、散々な一日になってしまった。 「なんで私には何も話してくれなかったの?」 かなでは頬を膨らませて律を見る。 「お前を巻き込みたくなかった。危険な賭けだったからな」 「でも…ひとことくらい、何をするのか言ってくれてもよかったんじゃない?」 「そんなことを言ったら、お前は反対しただろう?」 「当たり前だよ!あんな危険なこと!」 ほら、と律は笑った。 かなではしばらく膨れていたが、でも、と言った。 「律くんがあんなことするなんて、なんだか意外だった。いつもはもっと冷静でしょ。だけど…かっこよかったよ!」 かなでが自分のことのように誇らしげに語るものだから、律まで嬉しくなってしまった。 別に、名声のためにあんなことをしたわけじゃない。正義のヒーローなんて、自分の柄ではないし。 律をあんな行動に掻き立てた一番の理由は、かなでの存在だ。 かなでが無事だった。それだけで、律は満足だった。 「でも…律くん。なんであの人が犯人だってわかったの?私たちが最初にいた場所の、後ろにいた人だったみたいだけど…私、全然気づかなかったし」 「ああ。…それは」 律は鞄を開け、中を見るよう、かなでを促した。 鞄の中身の大半を占める赤いものに、かなでは首を傾げた。 「なぁに?これ」 「ずきんだ」 「…ずきん?あの、小学校の時、避難訓練で使った…あれ?」 「そうだ。でもこれは、普通のずきんじゃない。これに触れると、人の心の声が聞こえる。聞きたいと思った人の心の声が、な」 「ええっ?!」 「信じられないだろう?でも本当なんだ。これのお陰で、犯人の心の声が聞こえて…誰が犯人なのか、わかった」 「こ…これが…?」 信じられない。が、律がこんな冗談を言う人ではないことは、かなでが一番よく知っていた。 それに、実際律は犯人を捕まえたのだ。 「…誰の声でも聞こえるの?」 「ああ。部員たちや、響也や水嶋の声も聞いた。…彼らが普段、どけだけ俺のことを想ってくれているのか…このずきんのお陰で、再確認することができた」 「へえ…。…あ、だからか!」 「?」 最近、律が丸くなったような気がしていたのは、気のせいではなかったのだ。 「………ってことは」 はっ。 かなではパタパタと走り出して、律から遠ざかった。 「どうした?」 「私の心の声もっ…聞いたの?!」 律にかなでの本心がだだ漏れだったとしたら… こんなに恥ずかしいことはない。 それに、かなでの本心を知っているのに、律の態度が少しも変わらないのなら、それは… 「…いや、聞いていない」 「え…?そ、そうなの?」 かなでは安心したような残念なような、なんともいえない気持ちになった。 律は嘘をついていないようだ。…いや、かなでの本心を知った上で今の態度なら、あまりに悲しすぎる。 なので、律の言葉を素直に信じることにした。 「このずきんのお陰で、俺は自分が知らなかったたくさんのことを学んだ気がする。だが、このずきんを使うのは、今日で最後にしようと思ってな」 「そ、そうなの?そんなに便利なものなのに?」 「便利だからだ。…こんなものを使わなくても、俺は自分で本心を知りたい相手の本心を聞き出す努力をしなければいけないのだと思う。…今日ばかりは、助けられたが、な」 「そっか…。うん、なんだか律くんらしいね」 あえて甘えることをしない律だからこそ、星奏学院に来て、全国大会での優勝という夢を叶えることができたのだ。 堅物だが、それが律らしさ。 「しかし、今日は本当にすまなかった。今度埋め合わせをしなければいけないな」 「ううん、律くんのせいじゃないもん。でも、また二人で遊びに行きたいな」 「ああ。…大地にも、今日の映画の感想を話すと約束したのに…。報告するのは、別の話になってしまいそうだ」 「大地…先輩?」 「ああ、言ってなかったか?今日、本当は大地と映画に行く予定だったんだ。だが、大地が急用で行けなくなって…。大地に、小日向がこの映画を観たいと言っていたと聞いたから、お前を誘ったんだが」 「………。えぇえ?!」 「?」 かなではしょんぼりした。 そうだったのか…。 てっきり、律の意志でデートに誘ってくれたものだと思っていたのに、そんな理由だったとは…。 大地がお膳立てしてくれたことも悟り、かなでは更に落ち込んだ。 これから先も、誰かにお膳立てしてもらわなければ、律とデートすることなどできないのだろうか…。 今日は律のかっこよさを再確認できた日だったというのに、最後の最後で律の鈍さまで再確認してしまうとは。 「小日向、どうかしたか?」 「知らないっ!」 いきなり怒り出したかなでに、律は首を傾げる。 何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。 「…何か、気に障ることでも言ったか?」 「………。さあ?そのずきんでも使ったらっ!」 「………」 ぷい、と顔をそむけるかなで。 しかし、律は鞄の中のずきんに触れようとはしなかった。 「…いや。いい」 「え…?」 「お前には使いたくないんだ」 律は微笑んでいた。 使いたくない…? それがどういう意味なのか、かなでにはわからなかった。 「お前の心の声は、俺自身の力で…知りたいと思う」 「えっ…」 「…そのずきんを使って初めて、人並みのコミュニケーション能力が身についてきたくらいだからな。いつになるかわからない。でも、いつの日かきっと、お前の心の声を聞いてみせる」 「律くん…」 かなではゆっくり律に近づき、聞いた。 「ねえ、律くん。このずきん、律くん以外の人が使っても、心の声が聞こえるの?」 「っ…。いや、このずきんの話をしたのは小日向が初めてだから、それはわからない」 「…そっか。ねえ、これ…。私が使ってみてもいい?」 「えっ…?」 「私…、律くんの心の声が…聞きたい」 その発想はなかった、と律は驚いた。 今まで、人の心の声を聞くことばかりしていたから、自分の心の声を誰かに聞かれることなど想像もしていなかった。 かなでは、やや顔を赤らめて律を見つめている。 「………。ああ。いいだろう」 律は鞄ごとかなでに手渡した。 「ずきんに触るだけで…いいんだよね?」 「そうだ」 かなではずきんに触れ、目を閉じた。 「(律くんの心の声が聞きたい―――)」 『小日向』 不思議な感覚だった。 確かに律の声が聞こえているのに、まるで頭の中に響いてくるような感覚。 かなでは目を閉じたまま、耳をすませた。 『小日向。俺はお前を、一番大切に想っている』 「あ…」 優しい声だった。 『小さな頃からずっと、その想いは変わらない。…ずっとお前のことが好きだった。これからもずっと、その想いは変わらない』 「……………!」 かなでは驚き、思わず目を開けてしまった。 目の前には、珍しく照れたような顔を見せている律が。 「…聞こえたか?」 「……………」 かなでは頷いた。 顔が熱くて涙が出そうだった。 「…そうか。人に心の声を聞かれることが、こんなに恥ずかしいことだったなんて…知らなかった」 「いや~、なんつーの?ほら、自分だけ助かってもさ、そんなん許せねーじゃん?だから行動したまでだよ、ははは!」 月曜日。 いつものように教室に入ると、例のクラスメイトの周りに生徒たちが集まり、その中心で彼は鼻高々に武勇伝を語っているところだった。 「あっ、おはよう如月。お前も昨日、あの映画館にいたんだろ?」 生徒の一人が律のもとに駆け寄ってきた。 例のクラスメイトも律に気づき、一瞬気まずそうな顔を見せた。 「ああ、おはよう。…確かに、俺もあの映画館にいた。だが、犯人を捕まえるのに一番尽力していたのは彼だ」 「………」 「そうなんだ!まあ、そうだよな。如月はどっちかっつーと、暴力には向いてなさそうだもんな」 「ああ」 そのやり取りを見て、クラスメイトは律の腕を取り、引きずるように廊下へ連れていった。 「その…なんだ。えっと…」 本当は犯人を捕まえられたのは律のお陰なのに、映画館で言った通り、律が彼の功績だと言い放ったことを気にしているようだ。 「もしかしたら、何か気にしているのか?お前が一番犯人逮捕に貢献したという話をするのは、約束だったはずだ。何も気にすることはない。それに、お前に協力してもらって犯人を捕まえられたのは事実だからな」 「………」 彼は少し分が悪そうにしていたが、照れ臭そうに頭を掻き、こう言った。 「…実はさ。俺、今までお前のことよく思ってなかったんだ…。なんか、俺たちパンピーとは違うんだ、って鼻で笑われてるんじゃないかって思い込んでて…」 「………」 「でも、お前はそんな風に考えてるヤツじゃないんだよな。今回のことで、お前のこと、よくわかったよ。言い方は間違ってるかもしれないけど…ありがとう」 「………。いや、こちらこそ。ありがとう」 これも、ずきんの力のお陰なのだろう。 たった一人かもしれないが、誰かの誤解を解くことができた。 律は素直に嬉しかった。 放課後、職員室にずきんを届けにいこうとした律は、少し思い止まって、屋上に向かっていた。 このずきんを発見したのは屋上だ。もしかしたら、持ち主はよく屋上に来る人物かもしれない。 この一週間の間にも何度か屋上には来たが、それらしき人物は見つからなかった。 それでも、もしかしたら。 今日はいるかもしれない。そんな期待を持ちつつ。 「誰もいない…か」 屋上には誰もいなかった。 やはり職員室に届けた方が早かったか、と律は屋上を出ようとした。 「待つのだ、如月律!」 「?」 誰もいないはずの屋上で、名前を呼ばれた。 誰もいないと思ったのは、見落としただけだったのか? 「こっち。上、上なのだ!」 「………?………?!」 言われた通り、視線を上に向けると。 そこには、小さな人間に羽が生えたような生き物が、ふわふわと宙に浮いていた。 「な…」 「驚くなかれ、如月律。我輩はリリ!この学院を守る妖精、ファータなのだ!」 「妖精…」 無意識にくい、と眼鏡を直す。 昔かなでの祖父に聞いた、音楽の妖精のことを思い出した。 …そうか。それがこの妖精なのか。 「本当にいたのか…。それで、音楽の妖精が俺に何か用か?」 「むむっ…見かけによらず順応力が高いのだ。普通、我輩たちの姿を初めて見る者は、皆驚くはずなのに…」 リリの方が物珍しそうに律をじろじろ眺めている。 「まあ、いいのだ。…コホン。先日、我輩たちからお前に贈ったプレゼントは、気に入ってもらえたか?」 「…プレゼント?」 妖精と顔を合わせるのはこれが初めてだ。 そんなものもらっただろうか、と律は考え込む。 「お前が屋上で素晴らしい演奏を聴かせてくれた時のことだ。我輩、さりげなくあのベンチにプレゼントを置いただろう?」 「ベンチ…ああ!」 律は鞄を開け、ずきんを取り出した。 「これのことか?」 「そう!それなのだ!もう使ったか?便利なアイテムだろう?」 …なんだ。 このずきんは、忘れ物でも落とし物でもなく、 自分に贈られたものだったのだ。 「…ああ、使わせてもらった」 「いやいや!礼には及ばんぞ!いつも素晴らしい演奏を聴かせてくれるお前への、我輩からの気持ちなのだ~!でもどうしても礼がしたいというなら、一曲…」 すっ。 律はずきんをリリに差し出した。 「………?なんなのだ?」 「これは返す」 「ええっ?!」 ガーン! リリの背後から、そんな効果音が聞こえてきた気がした。 「な、な、な、なぜなのだ!使えなかったか?気に入らなかったのか?!」 「いや、違う。これはとても便利なものだった。大切なことを教えてもらったし、危険から救ってくれた。…でも俺は、これからはこのずきんに頼らず、良い人間関係を築いていきたいんだ」 「………そうなのか」 「貴重な体験をさせてもらった。…ありがとう」 「わかったのだ…。お前がそこまで言うなら…」 リリはしょんぼりしながらずきんを受け取った。 妖精からの好意を無下にするようで、律も心苦しかったが…。 やはりこのずきんは、自分が持っていてはいけないものだと思う。 「…っ、では、他に何か、我輩たちに望むことはないか?技術力が上がる腕輪や、気分爽快になるアメなど、いろいろあるぞ!」 「………いや、いい」 「そんなこと言わないでほしいのだ…。我輩たちは、お前のヴァイオリンが本当に好きだから…何か感謝の気持ちを表したいのだ…」 「………。そうだな。じゃあ」 「なんだ?!」 「俺の…。…俺の恋人に、その姿を見せてやってくれないか?」 律の頭に浮かんだのは、かなでのことだった。 きっと、この学院に妖精がいることを知ったら喜ぶだろう。 それに、驚くかなでの姿を見てみたいとも思った。 「お前の恋人…か。そいつは、妖精をいじめるようないじわるなヤツじゃないだろうな?」 「まさか。とても優しい子だ。…そのずきんのお陰で、俺たちは互いの気持ちを知ることができたんだ」 「…そうか。なら、いいぞ!明日の放課後、屋上に誰もいない時、我輩は姿を見せよう!」 「ああ、ありがとう。きっと彼女は喜ぶだろう」 「お待たせ、律くん!」 律は正門前でかなでと待ち合わせ、下校の約束をしていた。 恋人同士となったものの、今までと何かが違う、という決定的なものはない。 けれど、少しずつ、二人の関係を新しいものにしていけたらいい、と思う。 「んっ?律くん、またなんだか嬉しそう。何かあったの?」 「わかるか?」 そう自信ありげに微笑んだ律に、かなではなになに、と縋った。 「明日の放課後、屋上で一緒にヴァイオリンを弾かないか?」 「うん!いいよ。何かあるの?」 「………。実はな。この学院には―――」 END |